2023年8月アーカイブ

お店者(たなもの)の生活

大きな商店(大店)の勤め人(お店者)の生活をみる

 お店(たな)とは商店のことで、お店者はそこの奉公人をいう。
 江戸の商人にも、ピンからキリまで あり、三井のような豪商もおれば、裏店住まいの棒手振(ぼてふり)も、商いを職業とする以上、商人の範疇に入る。また上州屋・甲州屋などの屋号が示すように、比較的江戸に近い諸国から入ってきて、江戸の商人となった者、上方から進出して、江戸に出店を開いた、いわゆる江戸店持遠国(えどたなもちおんごく)商人もいる。

 後者を代表するのが、伊勢商人・近江商人で、「江戸名物、伊勢屋・稲荷に犬の糞」といわれ、 当時の見聞にも「表に懸り候のれんを見候へば、壱町の内半分は伊勢屋」 (「落穂集」)と記録されたように、彼らは「近江泥棒、伊勢乞食」と他国出身の江戸商人に罵倒されたほど敏腕を振るい、江戸の商権を握ったのである。

 店制というものは、商家によってまちまちであるが、共通した面もあった。しかし伊勢商人 近江商人のように、主人は国元に常住していて、江戸店の経営は支配人(番頭) に一任しているような場合と、主人と奉公人が同居している場合とでは、店制を初め、店の雰囲気にかなりの違いがみられた。

 江戸大伝馬町 (中央区日本橋本町) に軒を並べた木綿問屋、通称「伊勢店」の有力メンバーで、わずか1店だけ伊勢店ののれんを守り抜いてきたマルサン長谷川株式会社社長の長谷川治郎兵 家について奉公人の生活をみよう。

廣重畫「東都大伝馬町繁栄之図」国立国会図書館蔵.jpg




















▲ 廣重畫「東都大伝馬町繁栄之図」国立国会図書館蔵
大伝馬町は幕府の役職で荷馬を取り扱う道中伝馬役の屋敷が置かれたことが由来とされる。
1丁目は木綿問屋街として発展、木綿店(もめんだな)と呼ばれ,伊勢出身の木綿問屋が多く住み、店は独特の黒塗り櫛形窓の長屋造の老舗で左手前に長谷川がある。

 同家の奉公人は、大別して丁稚(でっち)[小僧]・手代支配人に分けられるが、その間さらにいろいろな職制があった。伊勢店の奉公人は伊勢(三重県)出身者にほとんど限られていた。 他国人を奉公人や徒弟に採用することが禁ぜられたのは、封建時代では洋の東西を問わず共通していた。同国人であれば気心がわかり、さらに縁故関係があり、身元がしっかりした者であれば、これに越したことはない。だから別家の子弟などを優先的に採用することが多かった。

 採用は松坂の本家で行い、採用しても勤めぶりがわかるまで仮採用とした。江戸へ下るとき松坂の本家に集合し、宰領にひきいられて東海道を10日ほどで江戸に着く。これからはもう親の死目にも会えないのである。丁稚は江戸店では、子供・子供衆(こどもし)・召仕などと呼ばれ、子供の最古参は子供頭と呼ばれて子供たちを統率した。この上の奉公人から手代と呼ばれるのであり、これにも勤めの長短により三番から五番役まであった。二番役は支配脇の者、または差買出役といわれ、支配人の次席である。支配人は二番役から選ばれ、これが店の最高責任者である。

 支配人を一定期間勤めると退役人となる。これが別家(末家)で、のれん分けによる独立である。

 これらが直接・間接、店の業務にあたる奉公人であるが、このほかに奉公人の食事や荷物の包装にあたる男衆(下男・裏男)がいた。男衆は伊勢出身でなくてもよかった。とにかく女っ気のまったくない殺風景な雰囲気であった。長谷川家の江戸店は、本店と分家店である新店(しんだな)・亀屋・戎屋(えびすや)・向店(むかいだな)の計5店あり、奉公人の数は、天保十三年(1842)をとると、本店31人、新店20人、亀屋・戎向店各22人、合計117人である。大坂の十人両替加島屋作五郎の奉公人は約30人、三井の越後屋呉服店の定員は元禄三年(1690) 68人といわれるから、つねに100人前後の奉公人を擁していた長谷川家の経営規模は、伊勢店のなかでも屈指であり、当時一流の豪商にしても遜色がなかったといってよい。

 商家奉公人の業務は、業種や機能によって違いがあった。両替商であれば、金銀手形の取付け、取引先から預け入れる現金や手形の処理、現金の出納、金相場会所への月勤、現金と帳簿との引合わせなどが、おもな業務であった。商売上とくに偽(にせ)金をつかまされる危険が多かったため、貨幣の目利きに習熟することが要請された。木綿問屋であれば、商品の仕入れや売りさばきに加えて、紺屋・晒(さらし)屋も出入りするので、その方の知識も備えていなければならない。

 しかもこれらの業務は、すべて体験と実物教育によって得した。しかし店の営業に直接タッチできるまでには苦しく長い丁稚修業が控えていたのである。丁稚の修行の第一歩は、どこでも店頭の雑務と使い走りに追いまくられることから始まる。丁稚時代を45年勤めると、元服して手代となり、一人前の髪が結えるようになる。新米の手代のおもな仕事は蔵役で、蔵と店の商品の出納を受け持つのであるが、もし1反でも不足すると、寝ずにでも調べなければならない。退店率は丁稚時代が最高で、この蔵役時代がそれにつぐ。

 手代は入店後八年目の2月勘定がすむと、初登りが許される。江戸から伊勢の在所へ3ヶ月の休暇をもらって帰省できるのである。入店後初めての帰省であり、久しぶりに親兄弟に会える喜びに、天にものぼる気持であったが、登りはすべてそのたびにいったん暇が出される形をとる。本人が在所にいるあいだに、松坂の本家では江戸の報告をもとに再動を許すかどうかをきめて申しわたす。ここで永の暇を申し渡された者も少なくなかった。初登りがすむと登り楽といわれ、店に出てお客と取引にあたる正式の販売員となる。これからさらに6年間に2度登りといって、二度目の帰省が許される。再動が許されると手代の古参格である。2度登りからさらに6年目に3度登りといって最後の帰省が許される。そして再動が許されると、番頭格となり店頭で羽織を着たり座布団をしくことができるようになる。

 この登りの制度は長谷川家に限らず、伊勢店全般に行われたことで、幕府の公定した奉公人の年季が10年以上を認めなかったので、それに合わせて再雇用の方法をとったものであろう。番頭格の最古参が差次買出すなわち仕入主任である。差次買役を34年勤めると、そのなかの選ばれた者が支配人(番頭)に昇格する。江戸店の経営責任者で、本家にかわって業務全般を統括する。店の営業の盛衰は、かかって彼の商才のいかんによるのである。 123歳から20年以上という、事実上の年季奉公を勤め上げたごく限られた者だけがこの栄冠を獲得するのであり、40歳前後の者が多い。

 支配人の任期は、3年ないし5年で、支配人をやめると退役人となる。しかし退役人となっても、後任の支配人の後見を勤めなければならない。それを45年勤めると、初めて宿持別家(やどもち別家)といって、伊勢または江戸で一戸を構えて妻帯することが許された。在勤中の元手金(資本金)割付、加増金および役金が支給される。しかし宿持別家となっても、主家へのいわゆるお礼奉公が義務づけられる。次に奉公人の給与について少し述べておこう。

 商家の奉公人が、その奉公に対して報償が与えられるのは、支配人・差次買出など店の幹部になってからである。

 それまでは、夏冬のお仕着せと時々小遣いが与えられるだけであった。 長谷川家の場合は、支配人に対して元手金割付加増金・金が支給され、差次買出役は、元手金割付だけが与えられた。元手金割付というのは、店の資本金の一部を支配人個人の資本金として貸渡される。そして毎年秋勘定のさい利益金のなかから、店の資本金に対する支配人の出資金の割合に応じて利益をわけてもらうもので、前述のように首尾よく勤め上げて永の暇を許され 、別家となった時に出資金と利益金を合わせて与えられた。

 このように、支配人・差次買出役が店の資本金の一部を借り、それを自己資金として店の資本金に繰り入れて運営し利益の配分にあずかるという仕組みは、奉公人の一種の経営参加であり、支配人ら店の幹部を業務に精励させるための巧妙な方策であった。 加増金は、勤勉手当であり、動労の程度と勤続年数により差があった。役金は支配人の職務手当ともいうべきものであろう。順調に勤め上げた者はこれらを合計すると、400両から700両に及ぶ大金が支給された。商売をしなくても、ゆうゆうと余生を送るのに十分な金額であった。

 しかしこれらの報償金は、実際には本人に支給されず、江戸店または松坂の本家が年5分(5パーセント)の利子をつけて保管し、新規に商売をするとか、不時の災害などやむをえない出費以外は、みだりに渡さなかった。これでは自分の金であって自分の金でないようなものであるが、別家と主家のあいだの庇護と奉公の関係からいえば、当然のことだったかも知れない。

 それではお店者の日常生活をうかがってみよう。封建社会のきびしい身分差別は、彼らの衣食生にもはっきりしみこんでいた。ふだんの衣服は、麻・木綿縞のお仕着せに限られ、それ以外に法度の絹物を着ることは厳禁されていた。ただし支配人に限り、ちりめん・郡内・紋付・小袖などの五5品をつくることは認められたが、私用は禁止されていた。履物も、支配人以外は、革緒の下駄・雪駄や上等の菅笠・傘は使用できなかった。

 食生活もよいとはいえなかった。朝は冷飯とみそ汁、昼・夜ともに一菜という日が多く、とくに月6回の精進日は香の物だけであった。 朝飯が冷飯と決まっていたのは、江戸は「火事は江戸の華」といわれたように、火災の多いところであったから、前の晩に多量の米を非常用に炊き、火事があればむすびにし、なければ翌朝の冷飯にあてられたためである。
 とにかくおかずが粗末なので、勢い主食の白米を多く食べることになり、脚気をわずらう者が少なくなかった。しかし当時の人は、これを「江戸わずらい」と称し、江戸の水が合わないためと考えていた。お店の食事がよくなかったのは、賄いが男衆頭の請負いであったため、中間搾取が行われたことも一因であったとみられる。

 外出の制限もきびしかった。入浴以外に私用にかこつけた外出は許されず、やむをえない用事で外出しても、午後十時までにはどんなことがあっても店にもどらなければならなかった。休日の5節句が外出の好機であったが、このときも夕方までにはかならず帰店するように命ぜられた。外出しても、有名な神社仏閣の参詣とか、浅草奥山や、両国広小路の見世物見物などがおもで、時間の制約と少ない小遣いでは気ままなことはできなかった。

 伊勢店は女っ気のまったくない殺風景なところで、そこに40歳前後まで住み込みの独身生活を送らなければならなかったから、性の問題はかなり深刻であった。しかしそこには抜け道もなくはなかった。 長谷川家では、吉原の引手茶屋近江屋四郎こと「近半」を指定し、ここに限って商売の取引や客の接待を名目に、店の者が遊興することを認めた。この店だと店の金で遊ぶことができたが、それにも奉公人の職制に応じて遊び方が決められていた。

 支配人・差次買出以外は、午後8時までにかならず帰店すること、芸者の総揚げは支配人でも無用などと、いろいろの制約があった。「近半」でもその意向をうけて、手代に無駄な遊びをさせず、門限までにどんなに泥酔しても、かならず送り帰すようにした。門限過ぎの帰店は、5日以上になると、無条件で店を解雇された。遊興費用につまって、店の品物を持逃げしたり、店の金を使いこんで暇を出された者もかなりいたのである。

 奉公人の解雇理由としては、「店風に合わず」とか「不埓に付勘当・永暇」などがあるが、丁稚徒弟が奉公する時は、「御主人様を真の親と思え」と訓戒されたように、親権が主人に 移され、主人が親に代わって奉公人に親権を行使した。主人が奉公人に対して折檻・勘当・出入禁止・奉公構などの懲戒権を行使できたのはそのためである。

 しかし解雇の理由として圧倒的に多かったのは、引負(ひきおい)、すなわち店の金を横領することである。それも店の幹部になるほど金額が多くなる。長谷川家でも、天明二年(1782)の綿店兵衛一件というのが大事件であり、綿店の差次買出役の庄兵衛が、禁制の油の「とたん商い」(投機商い)に失敗して、その穴埋めに5900両という多額の借金をこしらえ、ついに店をつぶしてしまった事件である。こういう大口の引負いは珍しいが、遊興費に困っての横領は、1回の額は少ないが、数が多いのが特色である。

三井越後屋の奉公人 両替店子供風俗図 三井文庫蔵 .JPG





















▲ 両替店子供風俗図 幕末期の子供の服装が見て取れる。
  三井越後屋の奉公人 三井文庫蔵
 

 呉服屋で知られた白木屋太郎の場合をみる12歳の子を丁稚に採用するのが慣例とな っており、5、6年たって元服する年ごろの者が、1回300~500文ずつ買食いに使い、総計も3~5両といったところが多い。買食いが多いというのは、店の食事が粗末で腹がへるためである。これが手代になると、使途も遊興がほとんどであった。売上金・売掛金を店に入れずに横領し、その大部分を深川などの岡場所で遊興し、女郎や芸者に入れ揚げ、残りを衣 額・小道具などにあてている。横領額の最高は、546両余となっている。 奉公人の不正に対しては、どこの店でも信用上、なるべく内々で始末するのが通例で、奉行所に持ち出すのはよくよくの場合であった。しかし引負金の返済については、親兄弟や請人からきびしく弁償させ方針をとっており、幕府も公権力でそれを保証したのである。

参考書籍//著者:北島 正元 書名:江戸古地図物語(1975年 毎日新聞社)から

江戸流入民の生業(なりわい)

主な業種(生業の形態)の担い手をみる

 家康の打入りのころは、一寒村にすぎなかった江戸も、その後、目ざましい発展の一途をたどっていく。町方人口は寛文の初め (1661年)には約30万、ついで享保六年(1721)に50万を超えていた。それは流入人口による膨張にほかならない。

 荻生徂徠は江戸の都市域の拡大は「民の心儘(こころまま)に家を建続るゆへ」としたが、室鳩巣は正徳(1711~16)から享保の初めにかけて、異常なほどの江戸周辺地域の膨張と、そこに居住する新たな流入民-日雇層の増大ぶりを指摘している。
 彼らはおもに武家奉公人として、また町方の下男下女や肉体労働者として雇われ、一度郷里を離れて江戸に居住したものの多くは故郷に帰ろうとはせず、主家から逃亡することはあっても、決して江戸から立ち去ろうとはしなかったのである。まさに流入であって、あくまでも故郷に帰ることを前提とした出稼人とは異なるものであった。
 このほか飢饉や洪水などのため周辺農村から江戸へ流入し、そのまま市中に沈積する者もまた少なくなかったのである。

 まことに江戸は「諸国の掃溜(はきだめ)」であった。このようにさまざまな理由のもとに、下層民は増大の一途をたどったのである。
 江戸流入民の生業は、籠かき棒手振(ぼてふり)、各種人足水汲み日雇い下男それに中間(ちゅうげん)などの武家奉公人が多かった。

 万治二年(1659)の業種は絹紬売、木綿布売、古着売、塩売、みそ売り、油売、餅売など50種をかぞえ、その人数は江戸北部だけでも5900人にのぼっていた。

東都歳時記 盛夏路上の図-左----.jpgのサムネイル画像東都歳時記 盛夏路上の図-右----.jpgのサムネイル画像

























▲東都歳事記「盛夏路上の図 行路夏衣] 国立国会図書館蔵
*挿絵詞書 
「何ことも時そと思へ夏きてはにしきにまさるあさのさ衣」 貞徳
路上で各種物売りをしている商人が多く描かれている真夏の風景。

 町々の住民の職業、出生地、年齢などを記した人別帳は、住民構成を知るため必須のものであるが、江戸はたびかさなる火災によって、ほとんどが焼失、してしまい、現在わずかに数点をかぞえるにすぎない。数少ない人別帳によって江戸の一部分ではあるが、住民構成の特色と実態をうかがうことができる。幕末の人別帳から出生地別の男女年齢別構成をみると、年齢の高い者ほど他所出生者の占める割合が多く、10歳以下の者はほとんど江戸生まれである。このことは両親あるいは一方の親が他所出生であっても、江戸で子供が生まれれば、その子は江戸出生者となるわけであるから、全体の平均は当地出生者が多いという結果が生じるのである。それはある意味で数字のからくりともいえる。

 夫婦とも他所出生者のうち、夫婦の生地がそれぞれ同一国の者は、四谷伝馬町新一丁目(以下四谷と略称)では14世帯をかぞえ、同一国郡のものは12(一四・14.0パーセント)、同一国郡村の者は10世帯(11.6パーセント)である。 そのうち子供のない3世帯を除いた残り7世帯の子供の出生地は、すべて両親の出生地の村と一致する。したがって彼らは出稼人ではなく、一家をあげて故郷を離れ江戸に流入したわけである。江戸では出稼人だけでなく、このような流入民が少なからず存在していた(四谷の場合、他所出生者の約20パーセント、全人口の約8パーセントを占める)。また慶応三年(1867)の渋谷宮益坂町・同道玄坂町では約20パーセントがこのような流入である。このような事実は今後もっと注目されるべきであろう。

 裏店住民の移動状態と職業および出生地との相互関係をみると、次のように興味深いものがある。神谷町の場合、弘化元年(1844)の裏店借17世帯のうち5年後の嘉永二年(1849)まで引き続いて居住していたのは、わずか3世帯にすぎない。これに対して家主・表地借・表店借はほとんど変動がない。弘化元年から嘉永三年にかけて転出入した38世帯の戸主の職業は日雇い10、その他11、記載のないもの17をかぞえる。日雇い10の内訳は当地出生2、他所出生8であり、その他の職業の内訳は当地5、他所6であり、職業の記載のないものは当地五5、他所12である。この38世帯を出生地別にみると、当地12、 他所26となり、他所出生者は当地出生者の2倍以上である。さらに他所出生者はその他の職では当地出生者とほぼ同数であるが、日稼ぎでは4倍、職業の記載のないものでも2倍に達しているのである。

 慶応元年(一八六五1865)から明治二年(一八六九1869)にかけて、四谷での転出率は幕末維新の動乱期というためもあってか、かなりの高率であった。しかし慶応元年の家持・家主層12世帯のうち、明治2年まで引き続いて居住していたものは5世帯にすぎず、残りの7世帯 (58.3パーセント)は転出した。同期間内における店借層は48世帯のうち10世帯しか継続していない。38世帯が転出(79.1パーセント)したわけで、店借層のほうが、はるかに高い移動率であることを示している。転出世帯の戸主の出生地は、ここでは相半ばしていた。

参考書籍//著者:南 和男 書名:江戸古地図物語(1975年 毎日新聞社)から

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