主な業種(生業の形態)の担い手をみる
家康の打入りのころは、一寒村にすぎなかった江戸も、その後、目ざましい発展の一途をたどっていく。町方人口は寛文の初め (1661年)には約30万、ついで享保六年(1721)に50万を超えていた。それは流入人口による膨張にほかならない。
荻生徂徠は江戸の都市域の拡大は「民の心儘(こころまま)に家を建続るゆへ」としたが、室鳩巣は正徳(1711~16)から享保の初めにかけて、異常なほどの江戸周辺地域の膨張と、そこに居住する新たな流入民-日雇層の増大ぶりを指摘している。
彼らはおもに武家奉公人として、また町方の下男下女や肉体労働者として雇われ、一度郷里を離れて江戸に居住したものの多くは故郷に帰ろうとはせず、主家から逃亡することはあっても、決して江戸から立ち去ろうとはしなかったのである。まさに流入であって、あくまでも故郷に帰ることを前提とした出稼人とは異なるものであった。
このほか飢饉や洪水などのため周辺農村から江戸へ流入し、そのまま市中に沈積する者もまた少なくなかったのである。
まことに江戸は「諸国の掃溜(はきだめ)」であった。このようにさまざまな理由のもとに、下層民は増大の一途をたどったのである。
江戸流入民の生業は、籠かき、棒手振(ぼてふり)、各種人足、水汲み、日雇い、下男それに中間(ちゅうげん)などの武家奉公人が多かった。
万治二年(1659)の業種は絹紬売、木綿布売、古着売、塩売、みそ売り、油売、餅売など50種をかぞえ、その人数は江戸北部だけでも5900人にのぼっていた。
▲東都歳事記「盛夏路上の図 行路夏衣] 国立国会図書館蔵
*挿絵詞書
「何ことも時そと思へ夏きてはにしきにまさるあさのさ衣」 貞徳
路上で各種物売りをしている商人が多く描かれている真夏の風景。
町々の住民の職業、出生地、年齢などを記した人別帳は、住民構成を知るため必須のものであるが、江戸はたびかさなる火災によって、ほとんどが焼失、してしまい、現在わずかに数点をかぞえるにすぎない。数少ない人別帳によって江戸の一部分ではあるが、住民構成の特色と実態をうかがうことができる。幕末の人別帳から出生地別の男女年齢別構成をみると、年齢の高い者ほど他所出生者の占める割合が多く、10歳以下の者はほとんど江戸生まれである。このことは両親あるいは一方の親が他所出生であっても、江戸で子供が生まれれば、その子は江戸出生者となるわけであるから、全体の平均は当地出生者が多いという結果が生じるのである。それはある意味で数字のからくりともいえる。
夫婦とも他所出生者のうち、夫婦の生地がそれぞれ同一国の者は、四谷伝馬町新一丁目(以下四谷と略称)では14世帯をかぞえ、同一国郡のものは12(一四・14.0パーセント)、同一国郡村の者は10世帯(11.6パーセント)である。 そのうち子供のない3世帯を除いた残り7世帯の子供の出生地は、すべて両親の出生地の村と一致する。したがって彼らは出稼人ではなく、一家をあげて故郷を離れ江戸に流入したわけである。江戸では出稼人だけでなく、このような流入民が少なからず存在していた(四谷の場合、他所出生者の約20パーセント、全人口の約8パーセントを占める)。また慶応三年(1867)の渋谷宮益坂町・同道玄坂町では約20パーセントがこのような流入である。このような事実は今後もっと注目されるべきであろう。
裏店住民の移動状態と職業および出生地との相互関係をみると、次のように興味深いものがある。神谷町の場合、弘化元年(1844)の裏店借17世帯のうち5年後の嘉永二年(1849)まで引き続いて居住していたのは、わずか3世帯にすぎない。これに対して家主・表地借・表店借はほとんど変動がない。弘化元年から嘉永三年にかけて転出入した38世帯の戸主の職業は日雇い10、その他11、記載のないもの17をかぞえる。日雇い10の内訳は当地出生2、他所出生8であり、その他の職業の内訳は当地5、他所6であり、職業の記載のないものは当地五5、他所12である。この38世帯を出生地別にみると、当地12、 他所26となり、他所出生者は当地出生者の2倍以上である。さらに他所出生者はその他の職では当地出生者とほぼ同数であるが、日稼ぎでは4倍、職業の記載のないものでも2倍に達しているのである。
慶応元年(一八六五1865)から明治二年(一八六九1869)にかけて、四谷での転出率は幕末維新の動乱期というためもあってか、かなりの高率であった。しかし慶応元年の家持・家主層12世帯のうち、明治2年まで引き続いて居住していたものは5世帯にすぎず、残りの7世帯 (58.3パーセント)は転出した。同期間内における店借層は48世帯のうち10世帯しか継続していない。38世帯が転出(79.1パーセント)したわけで、店借層のほうが、はるかに高い移動率であることを示している。転出世帯の戸主の出生地は、ここでは相半ばしていた。
参考書籍//著者:南 和男 書名:江戸古地図物語(1975年 毎日新聞社)から