現在の夏は6月から8月までですが、江戸時代は4月から6月まででした。
一見、季節が前倒しされているようですが、旧暦と新暦のずれから生じたものです。従って、今は6月に行っている衣替えを、当時は4月にしていました。一方では季節を考慮せず、同じ暦日を踏襲した行事もあります。そんな江戸の夏行事の中から、今も続いているものとその由来をご紹介します。
暦日を踏襲した行事
お釈迦様の誕生を祝う 「灌仏会(かんぶつえ)」 (4月8日)や「端午の節句」 (5月5日)などは、季節を意識することなく昔も今も同じ暦日です。 そのため元は夏の行事でしたが、今は春の行事として行われるよ に変わりました。 同じように、七夕 (7月7日)や盂蘭盆(うらぼん) (7月13日~15日) などは秋の行事でしたが、現在は夏の行事として定着しています。 しかし、まだ梅雨が明け切っていないことが多々あります。全国的には1カ月遅らせて、8月に行う所が多いのはそのためです。
旧暦と新暦
ここで旧暦と新暦の違いに触れておきます。
江戸時代の暦は「太陰暦」と呼ばれ、月の満ち欠けによって1カ月の単位を決めていました。
つまり新月から満月を経由して新月までが1ヵ月です。平均すると29.5日でした。
実際には、1日が 0.5日ということはありません。1ヵ月が30日ある「大の月」と、29日しかない「小の月」に分けて運用していました。
これを表す暦が「大小暦」ですが、1年に換算すると354日前後です。そのため「太陽暦」(現在の暦)に対し不足する日数分を2、3年に1度、1年が13ヵ月ある間を置くことによって調整していました。
閏月を何月にするかは、幕府の天文方が季節とのずれを考慮しながら決めていました。
夏から春の行事へ
元々夏の行事であった灌仏会(花祭り)や端午の節句(こどもの日)が春の行事になったことにより、変わったこと変わらないことを見てみたいと思います。
灌仏会は花御堂の真ん中へ誕生仏を置き、甘茶を注ぐ風習は今も変わりません。しかし春の4月は時に肌寒く、害虫も潜んだままです。だから誕生仏へ注いだ甘茶で墨を摺り、「千早振る卯月八日は吉日よ神さけ虫を成敗ぞする」と書 いて柱に貼った、毒虫退散の風習は絶えてしまいました 。
端午の節句は菖蒲の節句ともいわれるように、どこでも手に入る菖蒲が主役でした。子供たちが刀(菖蒲 刀)にして、チャンバラ遊びができたのも、菖蒲が豊富だったからです。季節が前倒しになった現在では、 温室育ちのため、菖蒲湯にしか使われないほど高くなりました。幟(のぽり)も鯉幟ではなく、鐘馗(しょうき)などの豪傑を描いた幟幢(のぼりばた)を立てるのが一般的でした。
江戸時代も後期になると、江戸を中心に柏の葉を使った「柏餅」が出てきます。柏の葉は新芽が出るまで 古い葉が落ちないことから、子孫繁栄に通じると武士の間で喜ばれたようです。しかし、童謡 「背比べ」にも ・・・♪ちまき食べ食べ兄さんが・・・と歌われているように「粽(ちまき) 」が圧倒的でした。柏餅が全国に拡がるのは昭和になってからです。
▲東都歳事記 「端午市井図」
両国の夕涼み
隅田川の「川開き」 といえば、すぐに両国の花火を連想するのは、江戸時代も同じです。 両国で花火を打ち上げるようになったのは享保19年(1733)からです。前年に始まった大飢饉(享保の飢饉)とコレラの大流行に伴い、江戸でも多くの死者を出しました。
そんな死者の霊を慰めるためと病魔退散を願い、幕府は両国で水神祭を実施しました。その際に花火を打ち上げたのが、隅田川花火の始まりです。当時は川開きより「夕涼み」という言い方が一般的でした。花火も5月28日の初日だけでなく、8月28日の千秋楽まで、スポンサーさえ付けば、毎日のように打ち上げていたからです。その花火を作っていたのが「鍵屋」と「玉屋」です。
元々鍵屋だけでしたが、文化5年 (1808)に鍵屋の番頭だった清七が独立し、玉屋市兵衛を名乗ったのが玉屋の始まりです。その後は両国橋の上流と下流で技を競いあったと伝わります。実際には「橋の上 玉屋々々の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情(錠=鍵屋の掛詞)なし」の狂歌が残るように、玉屋の方が圧倒的に人気だったようです。ところが天保14年(1843) 玉屋は火事を起こし、所払いになってしまいました。以来、鍵屋だけが歴史を伝えていました。
明治以降は時々中断しましたが、その都度復活しました。直近の中断は、昭和37年(1962) から52年まででした。その後都民の声に押されさて、同53年に「隅田川花火大会」と名前を変えて復活し、現在に続いています。
▲東都名所 両国の涼 歌川国芳
山開き
6月1日は、「氷室(ひむろ)御祝儀」として、幕府は貯蔵していた天然氷を取り出して食べる日でした。
民間では、寒の時期について網(袋)に入れ保存しておいた「氷餅(こおりもち) <かき餅>」を、代わりに食べていました。「東都歳事記」が「町屋にても旧年寒水を以て製したる餅を食してこれに比(なぞ)らう」と載せています。
富士山や大山などの山開きもこの日行われました。当時の登山は宗教活動の一環でしたから、登拝する人 は、水垢離(みずこり)などで身を清めて山へ向かいました。数ある山のなかでも富士山は古くから霊峰と呼ばれ、別格の存在でした。とりわけ角行東覚(かくぎょうとうかく<1541~1646>) の始めた富士講は、庶民に富士山信仰を広めるきっかけとなりました。
しかし、富士講が江戸市民の間で爆発的にはやるのは、食行身緑 (じきぎょうみろく<1671~1733>) が富士山烏帽子岩で断食修行を続けたまま入定したことによります。享保17年から始まった享保の大飢饉は、翌年には江戸へ飛び火、初めて打ち壊しがありました。それでも何ら手を打たなかった幕府へ抗議の意味を込めてです。そのことを知った江戸の人々は競って富士講信者となり、俗に八百八講といわれるほど隆盛するようになりました。
しかし当時の富士山は女人禁制だったので、女性は登拝することが許されませんでした。 打開策としてミニチュア富士「富士塚」が築かれるようになりました。こちらは女性も含め誰でも登拝できたのでみるみるたくさんの富士塚が築かれるようになりました。中でも北方探検で知られる近藤重蔵が目黒の別邸に築いた「新富士」は、すぐ近くの「元富士」と共に、広重が『名所江戸百景』に描いたほど知られていました。
富士塚自体の高さは5~12m前後と幅がありますが、風光明媚で本物の富士山が望める高台などに築かれたものは特に人気がありました。しかも本物へ登拝したのと同じご利益が得られるとされていました。ですから富士塚へ登拝する人たちも、6月1日(現在は7月1日)は、白衣に着替えて「六根清浄」と唱えながら登拝を行いました。 品川富士や下谷富士などは、今もなお登拝行事を継承しています。
▲富士講の一行(東都歳事記)着色:福島信一
▲二代歌川国輝 富士山諸人参詣之図
盆踊り
盆踊りは元来、盂蘭盆(うらぼん)の時期に先祖を慰める先祖供養の一環として踊られました。 だから古くからのものは、念仏踊りの面影を残しています。 東京都指定無形民俗文化財である佃島に伝わる盆踊りも、 先祖供養の形を今に伝えています。
踊り会場には、南無阿弥陀仏」と書かれた提灯が飾られ、正面には精霊棚が建てられます。 棚の真ん中に「無縁仏」と書かれた掛け軸を掛け、野菜を供えるのが習わしです。精霊棚の前には、山盛りに線香を入れた火鉢が置かれ火がつけられます。 踊り手はその前で精霊棚に手を合わせてから踊るのが習わしです。なぜそんなことをするようになったかは、 佃島の位置と歴史に関係しているようです。
開府以来、江戸の街には死者が大勢出る大火事がたくさんありました。中でも明暦3年(1657)の大火は、 江戸の大半を焼き尽くす大惨事でした。このとき避難民が殺到したのが、浅草見附門です。しかし、役人たちは門を閉ざしたまま開けなかったため、火の手に追われた人々は塀を乗り越え次々と隅田川へ落ち溺死しました。 その数3万人以上といわれます。溺死者の多くは、三途の川 (隅田川)を下り、六道の辻 (佃島)に流れ着いて止まりました。 そんな溺死者を慰め、供養するために始まったのが、佃島の念仏踊り(盆踊り)です。
私が初めて佃踊り見学へ行ったとき、世話人と思える人に山盛りの線香を焚く由来を尋ねたところ、「死体の匂いよりはいいでしょう」 と言われたことを今も思い出します。
実際、 隅田川が三途の川であったことは、遊女や夜鷹の末路を見れば分かります。
年取って商品価値のなくなった夜鷹を橋場で殺して捨てた、などという古川柳も残っています。
「橋場」は吉原に近い人通りの少なかった隅田川上流、白髯橋付近のことです。夜鷹に限らず、隅田川を流れてきた無縁の人々をも一緒に供養する念仏踊りを、何時までも続けて欲しいと願うのは私だけでしょうか。平成30年から踊りの主催者が分裂し、それぞれが別々の日に行うようになりました。
例年通りの日程(7月13日~15日)は新興の団体が、都無形民俗文化財の方は1月遅れの8月13~15日の間に行うことで決着がついたようです。 無形民俗文化財の方はこれまで通りを踏襲とのことですが、新興の方は精霊棚を仏壇に変え掛け軸の文字も 「南無阿弥陀仏」に変更、火鉢に大量の線香もありませんでした。
▲佃踊り(絵本江戸風俗往来)
【参考資料】
ボストン美術館
国立国会図書館
早稲田大学図書館
『東都歳事記』
『絵本江戸風俗往来』
『武江年表』
『中央区史』 (東京都中央区編)
『佃島物語』 (豊田靖人ほか編)他
江戸東京博物館友の会会報『えど友』 令和元年5-6 第109号