第二十五回 「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(後編)」
書名 明治神宮の出現(2005年 吉川弘文館)
著者 山口輝臣
* 太字部分 本書より引用
(明治神宮創建のための)「覚書」が満場一致で議会を通過すると、さっそく調査会を設置することになった。その際に問題になったのが、調査を実行する組織に創建の可否を委ねることになってしまわないか、ということだった。そのため、議会を通過した同じ年の8月、明治天皇を祀る神社をつくることと、そのために調査会を設けることを明確に分け、調査会の権限から神社創建への可否判断を除く方針が、原敬内相*1によって表明された。内務省によれば、明治神宮をつくるのを決めるのは大正天皇だった。ところが実際には、大正天皇が裁可を下せば創建が決定するという訳でもなかった。必要な条件がそろわなければ、創建はかなわなかったのだ。大正天皇の裁可は条件がそろうまでのいわば「内定」期間と位置付けられた。
必要な条件とは何だったのか。明治神宮は官国弊社であり、その創立は当時内務省告示によって公布されることになっていた。告示されるのは社名、祭神名、鎮座地、社格のみだ。しかし大正天皇が創建の裁可をくだした大正2年末の時点で、社名は明治神宮、社格は官弊大社がそれぞれ有力であったが決定にはいたっておらず、鎮座地も未定、祭神についても明治天皇とともに維新の英雄たちを祀るべきという意見が少数ながら存在していた。
調査会は神社奉祀調査会(以下、調査会)と名付けられ、明治天皇を祀る神社をつくるために必要な諸事項を、調査・審議する権限が与えられていた。立法府、枢密院、軍、行政府、宮内省、学界、産業界の代表として選ばれた若干名が内閣によって任命された。国民代表から構成されていることを示すために、調査会はあえて神社についての専門家ではなく、各界の代表者を集めていた。
大正3年1月15日に開催された第二回調査会において、社格は官幣大社、称号は神宮とすることが決まった。鎮座地は東京府下とすることも決まった。続く第三回で東京のどこにするかが話し合われ、1週間後の1月25日に開かれた第四回調査会で、鎮座地は全会一致で代々木(南豊島御料地)に決定した。代々木が選ばれた理由について、官報は次のように記している。
「すなわち恭しく惟(おも)うに、南豊島御料地(代々木)は、東京近郊に於ける最も広闊幽邃(こうかつゆうすい)の地たり*2。殊に御苑林泉の美は自ら神域たるに適し、其の位置市街に接し、而かも塵かんを隔てて、全く別天地を画するの観あり。即ち、御苑と共に此の御料地を以て、神域と定めらるるは、最も其の宜きに適したるものと思考す。(《公文雑簒》簒一三三三)。」
代々木は最も「広闊幽邃」な地域であること、すなわち自然環境が評価されて選ばれた。二日後の大正3年2月17日、南豊島御料地(代々木)を所管する宮内省へ照会(《公文雑簒》簒一三三三)、一か月後に宮内省が了承し、4月2日に無事上奏を経る(《公文類聚》類一一九四)。代々木の神宮建設は、ここにおいて正式に政府見解となった。
このころ、調査会の大幅な委員の入れ替えが行われる。新委員の人選は当初とは異なり、歴史家や建築家である東京帝大教授など、専門家が中心となった。組織更新もなされ、調査会内に新しく特別委員会が設けられた。特別委員会に旧委員はひとりも属さず、ほとんどが新委員で構成されていた。委員長には阪谷芳郎東京市長が就いた。襷(たすき)は旧委員の渋沢から阪谷へと渡された。
調査会が改編された直後の大正3年4月10日、明治天皇の皇后であった昭憲皇太后が亡くなった。特別委員会は最初の議題としてこれを取り上げ、昭憲皇太后を明治天皇とともに明治神宮に合祀することとなった。このときから明治神宮は明治天皇夫妻の神宮となった。
ところで、外苑について調査会はどのような決定を下していたのだろうか。
「覚書」には次のように記されていた。すなわち 「①神宮は内苑と外苑とからなること。②内苑は国費によって国が、外苑は献費によって奉賛会が造営すること。③内苑には代々木御料地、外苑には青山練兵場を最適とすること。④外苑には記念宮殿・陳列館・林泉等を建設すること」と。この通りであれば、民間が奉賛会を組織し寄付金を集めて、外苑で記念事業を行うということだ。その場合、調査会の役割は事業の承認と、場所の確保ぐらいしかない。実際、調査会はそれを実行した。①~④は着々と実現していく。
大正3年(1914)7月、調査はほぼ完了し、続いて造営作業の準備が始まる。大正4年5月1日には、長かった「内定」の期間を終え、正式に明治神宮の創立が発表される。調査会にかわって内務省に明治神宮造営局が設けられた。
12月14日には外苑の設立発起人会が開かれた。そこには、かつて「覚書」を作成した渋沢、阪谷、中野らが中心となって名を連ねていた。しかしながら、明治神宮が東京のものであってはならないように、それをつくる組織も東京だけのものであってはならなかった。様々な準備を経て、大正4年5月15日に創立準備委員会が開催され、以後は明治神宮奉賛会(以下奉賛会)が外苑造営を担当することになった。総裁には伏見宮貞愛親王がついた。
「創立準備委員の指名は渋沢男(男爵)、阪谷男、中野会頭に一任せんことを発議し、満場之に同意」(《明治神宮に関する書類》)。会の様子はかつて「覚書」を一任したときそのままのようであり、要するに「覚書」を作成し、「明治神宮を東京へ!」という運動の中心に立った人たちが、そのまま外苑造営のための組織の中心へと横滑りしたということである。~中略~明治神宮が東京にありながら、東京のものであってはならなかったように、それをつくる組織も、かつてのように、東京だけのものであってはならなかった。発起人の呼びかけや趣意書の作成などさまざまな準備の後、大正四年五月十五日に創立準備委員会が持たれ、以後はこの明治神宮奉賛会が外苑造営を担当していく。総裁には伏見宮貞愛親王が戴いた。」
奉賛会の作成し配布した「明治神宮外苑計画考案」には次のように記されていた。
「神宮は森厳荘重でなければならず、建造物を数多く立てるわけにはいかない。社殿な宝物殿があるとはいえ、『国民の至誠は尚ほ望蜀の念なき能はず』。そこで『宜しく別に一区を設けて茲に広大なる外苑を作り』、遊覧できるような諸施設をつくれば、『明治大正の盛世を記念せしむる』ことができるだろう、と。」
神宮の森(内苑)は厳粛で重厚な場所でなければならない。よって建造物を数多く立てることはできない。一方国民は、明治天皇とその時代を記念するために、内苑だけでは足りないと思っている。内苑とは別に外苑を作り、そこに国民が楽しめる様々な施設をつくれば、明治大正という国力盛んな時代を記念することができるだろうという訳だ。
内苑だけでは物たりないから外苑をつくろうという呼びかけは、寄附金の募集でもあった。明治神宮外苑が国民の賛同によるものであることを示すために、寄附行為は重要だった。富豪による奉加帳方式のものだけではなく、「総ての階級に渉り遺漏なからんこと」を期して、少額の寄付をも奨励した。中には結婚費用を節約して寄附金を捻出した者や、栗を拾って売った小銭を寄附した小学生もいた。奉賛会のこうした姿勢は、明治神宮が国民全体の賛同によってつくられることを示していた。
国民の奉献は寄附金にとどまらなかった。
各地から十万本を超える木が奉献された。その中には台湾・樺太・朝鮮・関東州など、遠方からのものもあった。大正8年(1919)10月、予算が逼迫する中で、明治神宮造営局書記官であった田沢義鯆(よしはる)によって、労働力の提供、すなわち青年団による勤労奉仕が発案された。勤労奉仕には、大正11年末までに延人数にして十万人余が参加している。参加した個人には、低廉ながら賃金も支払われ、幾多の特権*3が与えられた。勤労奉仕の青年団は意図的に全国から集められていた。それは、明治神宮は東京中心のものという印象を弱める効果をもたらした。
外苑には競技場に続き、野球場・相撲場・水泳場と、当初の計画になかった運動競技のための施設が次々とつくられ、大正13年には明治神宮競技大会(のちに明治神宮体育大会と改称)が開催された。そして昭和15年(1940)に計画されていた東京オリンピックの会場として、はじめはこの明治神宮外苑が予定された(橋本一夫『幻の東京オリンピック』日本放送協会、一九九四)。外苑にある建造物の多くが、事実上、青年のためのものだった。
とはいえ外苑の中心施設は、やはり聖徳記念絵画館であった。聖徳記念絵画館は、普通の美術館とは違って、明治天皇の事歴を再現した絵画80枚が、現在に至るまでそのまま展示され続けている。外苑の工事も、大正15年(1926)の9月には竣工。翌月には外苑を明治神宮へと献じる奉献式が行われ、明治神宮外苑はここに完成した。
明治神宮の内苑が完成して今年で103年、外苑が完成してから97年が経った。
2023年末現在、2024年の着工を目指して神宮外苑の再開発計画*4が進められている。計画では、外苑の樹木約3,000本を伐採することになっているため、環境保護や景観維持の観点から批判の目が向けられている*5。令和版の「風致」問題と言っていいだろう。
明治神宮外苑の敷地は国有地の青山練兵場だった。そこに明治天皇とその時代を記念して、全国から寄せられた寄附金、献木、労働力の提供によって、民間主導でつくられたのが外苑だ。出来上がった外苑はその後、明治神宮奉献会から明治神宮に奉献され、地権者は明治神宮となった(第2次大戦後、GHQに接収されたが、後返還された)*6。
近年、規制緩和によって高層ビルの建設が可能になり、外苑エリアのビジネスチャンスは拡大した。しかし、外苑は多くの国民が訪れる、極めて公共性の高いエリアだ。なおかつ、その創建には当時の多くの国民が関わっている。このようなエリアでは、経済論理だけでことを進めてよいということにはならないだろう。
外苑の創建に関わってきた当時の経済人もまた、外苑に経済的な効用を求めていた。しかし彼らは、それを第一とせず、常に国民の気持ちによりそいながら、慎重に計画を進めた。当時と今では事情は大きく異なるし、安易な比較は控えなければならないが、渋沢ら当時の経済人は、「外苑は国民のものである」という考えを、終始一貫して持ち続けていたように思える。
神宮外苑の再開発では、最低でもその「風致」を維持できる範囲で進めてもらいたい。神宮外苑に限らず、すべての公共性の高いエリアの土地開発は、「風致」を維持あるいは高めることを念頭に進めるべきだ。開発者は国民の声に真摯に耳を傾け、大多数の賛同を得てから、計画に着手するべきである。 了
*今回をもちまして「月日の鼠 江戸十万日」を終了いたします。
長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。
<青山富有柿プロフィール>
随筆家。1960年岐阜県生。大学卒業後全国紙に勤務。東京在住30年。
江戸下町文化研究会の草創期からの会員。
<脚 注>
*1原敬(はらたかし)1856~1921(安政3-大正10)政治家。岩手の生まれ。外務省 退官後、大阪毎日新聞社社長に就任。立憲政友会創立に参画し、逓相・内相を歴任後、総裁に就任。大正7年(1918)平民宰相として初の政党内閣を組織し、交通の整備、教育の拡張など積極政策を行った。東京駅頭で刺殺された。出典 小学館デジタル大辞泉
*2広闊幽邃(こうかつゆうすい)広々と開けていて、奥深く静かなこと。
*3 奉仕が終われば憧れの東京見物が待っていた。宮城や新宿御苑の拝観が特別に許可され、宿泊・食品購入・入浴料などの便宜が図られたほか、新聞社には招待を受け、名士の講演会まで聞くことができ、万一病気になっても済生会などが協力を惜しまないとくれば、行かないという手はないだろう。なお、経費は自弁だったが労賃は低廉ながら支払われた。(本書より抜粋)
*4再開発計画 事業者側の計画では2024年に着工予定、2036年の完成を目指す。28.4?の敷地に建物6棟、延べ56万5000㎡の施設を整備し、既存の神宮球場・第2球場の敷地に新・秩父宮ラグビー場を2度にわたって整備するとともに、神宮球場の移設新築工事(第2球場の撤去・解体後、ラグビー場の第1期工事として、現・神宮球場と位置が重なる南側スタンド部分を除く箇所の設置工事を実施、その後現・ラグビー場跡地に新・神宮球場を建設したのち、現・神宮球場の撤去・解体とラグビー場の第2期工事・南側スタンドの設置工事を行う)も実施するほか、オフィスビルなどの複合ビル棟A、宿泊施設やスポーツ関連施設等の入居する複合ビル棟B、公園支援施設や商業施設などの文化交流施設棟、事務所棟などを設置する予定である。(Wikipediaより抜粋)
*5再開発計画への批判 計画への批判は、樹木伐採だけでなく、「景観破壊」「公園が商業ビルに変わってしまう」などの反発とも相まって、昨年(2022年)あたりから急速に広まった。都内在住で異文化理解も専門とする米国人経営コンサルタント、ロッシェル・カップさんが計画中止を呼びかけたオンライン署名には、今月(2023年5月)までの約1年3カ月で約19.5万筆が集まった。朝日新聞デジタル「時時刻刻」「神宮外苑の大規模開発、反対署名19.5万筆 何が問われているのか」(土舘聡一 野村周平 2023年5月16日配信)より抜粋
*6明治神宮の地権者 第二次世界大戦後、神宮外苑は1945年9月18日から連合国の進駐軍(連合国軍最高司令官総司令部(GHQ))に接収された。1952年3月31日に返還された。明治神宮球場は「ステートサイド・パーク 」と改名され、進駐軍専用の野球場として使用されていた。「明治神宮外苑競技場」も接収され「ナイルキニック・スタジアム」(ナイル・キニックは米国軍人名)と改名されていた。日本側へ返還される前年の1951年に東京都は風致地区に指定した理由について、大澤昭彦准教授は緑地を保全するため先手を打ったからと述べている。銀杏並木の道路用地は東京都に移管され、競技場はアジアオリンピック開催に備えて国立競技場として文部科学省に移管・改築された。これを除けば、明治神宮外苑の全体は明治神宮が管理しており、広く国民に開放され、都心における大規模で貴重な緑とオープン・スペースになっている。特に、イチョウ並木は東京を代表する並木道として知られている。(Wikipediaより抜粋) 以上
▲聖徳記念絵画館 (せいとくきねんかいがかん)
聖徳記念絵画館は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。
鉄筋コンクリート造、建築面積2348.52平方メートル、地下1階、銅板葺。重要文化財指定(2011.06.20)(国指定文化財等データべースより)