第二十四回「明治神宮外苑はなぜつくられたのか(前編)」
書名 明治神宮の出現(2005年 吉川弘文館)
著者 山口輝臣*1
------------------------------------------------------------------* 太字部分 本書より引用
明治神宮外苑はなぜつくられたのだろうか。
明治神宮(内苑)が完成したのは大正9年(1920)11月。外苑はその約6年後の大正15年(1926)10月に完成している。明治天皇が亡くなったのが明治45年(1912)7月30日だから、内苑完成まで約八年、外苑まで約十四年が経過していた。
明治神宮の祭神である明治天皇は、日本最初の立憲君主だった。立憲君主の死は、我が国にとって初めての経験だった。天皇の葬儀や陵墓についての法律も整備されていなかった。*2法律も先例もないこの事態にどう対処するべきか。新聞各紙には著名人の意見が多数寄せられ、多くの国民が新聞に投書して意見を述べたという。
「大隈重信、板垣退助、徳川慶喜、大倉喜八郎、豊川良平、加藤弘之、穂積八束...この時期に活動していた主要な政治家・実業家・学者はほとんど紙面に登場しているといってよい。今回の死とその後について、明確な専門家はいなかった。法令の解釈から迫ろうにも、法令そのものが足りなかった。記念という行為をなんらかの事業として行えという声は、あらゆるメディアに満ち溢れた。~中略~明治天皇とは直接的な面識のない人までもが、新聞へ投書してまで意見を開陳していた。類比的に言うならば、だれもが関係者として主張していたのであり、希望すればとりあえずだれもが「自由」に企画し、参加することができた。」 *「 」は本書より抜粋
明治天皇の死から二日後の8月1日、渋沢栄一*3、阪谷芳郎(東京市長)*4、柿沼谷蔵(日本橋区会議長)*5、中野武営(商業会議所会頭)*6、実業家の近藤廉平*7、早川千吉郎*8、星野錫*9が東京商業会議所に集まり、明治天皇の御陵墓の場所を東京にするための運動を開始する。しかし同じ日に、河村金五郎宮内次官から、大喪の礼は青山練兵場、ご陵墓は京都府下紀伊郡堀内村旧称桃山城址に内定した*10という発表があり、この運動はあっけなく頓挫してしまう。ご陵墓を京都に造るのは明治天皇の意思であるとされた。
渋沢らはあきらめなかった。陵墓がだめならせめて、明治天皇を祀(まつ)る神社、すなわち明治神宮を東京につくろうという構想が浮上する。渋沢らは以後、明治神宮創建を目標に運動を継続していく。
運動の中核を担ったのは、渋沢、阪谷、近藤、中野の四人だった。東京市長と経済人3人で、政治家や学者、神職はいなかった。渋沢らは、明治天皇の死によってもたらされた不景気を、なんとかしなくてならないと考えていた。少なくとも初期段階の「明治神宮を東京へ!」という運動は民間の経済人主導だった。
経済人主導との批判に配慮し、8月9日の連合協議会では、渋沢(座長)、阪谷、近藤、中野の経済人4名のほかに、区会議長、市選出代議士、市会議員、府会議員から1名ずつ委員が選出された。12日に開かれた委員会では、具体案を阪谷、中野の両名に一任することが決まる。「覚書」と名付けられた具体案はすぐに出来上がり、14日の委員会、16日の区会議長の会合を経て、20日の連合協議会で異議なく可決された(「明治神宮奉建協議の経過」『竜門雑誌』第二九二号)。「覚書」は明治神宮の創建における最重要文書であり、完成した神宮の姿を先取りしていた。「覚書」の内容は次のとおり。
「①神宮は内苑と外苑からなる。②内苑は国費によって国が、外苑は献費によって奉賛会が造営する。③内苑には代々木御料地(正式には南豊島御料地)、外苑には青山練兵場を最適とする。④外苑には記念宮殿・陳列館・林泉等を建設する。」
伊勢神宮には「外宮」と呼ばれる場所がある。伊勢神宮の内宮-外宮形式が、明治神宮の内苑-外苑構想の参考にされた可能性は高い。しかし、「外苑」は「外宮」と違って神社の外につくられており、景観も日本庭園ではなく公園のようなものだった。外苑は明治天皇を記念する事業を実行する場であった。それはまったく新しい発想に基づいていた。
「明治神宮は決定的な点で新しかった。外宮を踏襲するのではなく、外苑を「発明」した点で。神社の中に苑をつくるのでも、神社を苑とするのでもなく、神社と苑をつくり、しかもその苑をも神社の部分であるとする点で。そしてその苑を、いわゆる和風の庭園にとどめず、ほとんど公園と言われるようなものへとする点で。?中略~内苑-外苑の形式の本当に卓越したのは外苑というアイデアにある。普通には神社とは言い難い諸施設を、外苑なる空間を設定し、そこへつくってしまおうというアイデアにあった。外苑は記念のために設けられる空間なのである。明治天皇の死にともなって数々の案が出された記念事業を実行する場なのである。」
「内苑」は御料地という皇室の所有地で、「外苑」は練兵場という国有地だ。そこにひとつの神宮をつくろうという構想はいかにして実現したのだろうか。
8月12日に「覚書」の作成を一任された阪谷と中野は、同じ日に渋沢を交えた3人でさっそく会合を持ち、その2日後に「覚書」は早くも形になっていた。なぜこんなに早く案がまとまったのだろうか。実はこの会議に同席した人物がもうひとりいた。弁護士の角田真平*11だ。神宮の敷地は、明治天皇が存命であれば開催する予定だった即位50周年記念日本大博覧会の敷地予定地と同じ代々木御料地と青山練兵場だった。角田は市区改正局長として博覧会委員だったので、両地の関係を熟知していた。
「『覚書』は八月十二日の委員会で阪谷芳郎・中野武営に一任され、両名は同日午後に渋沢栄一を交えて市役所にて会合を持った。そして二日後には早くも形になっている。さて阪谷の日記には、委員でないにもかかわらず午前中の委員会へと出席し、「覚書」について協議したであろう三頭会談にも同席した人物の名前が記されている。その人の名は角田真平。そして渋沢が「弁護士の角田真平氏が頻りに骨をおって」とのちのち回顧している(『雨夜譚談話筆記』)。さらに当時の新聞ではこう報道されている。元来青山及び代々木の敷地設計は、阪谷中野両氏の起案なるが如く報告されたるも、実は角田真平氏の立案なるものにて、氏は曩きに市区改正局長として博覧会委員となり、右両地の関係を詳知し居り、博覧会予定敷地を其儘内苑外苑の敷地に充てたるものにて...(『報知新聞』八月二十二日)」
端的に言えば、日本大博覧会の予定敷地が、明治神宮へと生まれ変わったということだ。大博覧会終了後には、外苑エリアを東京都の公園にすることも既に決まっていたので*12、一時的ではなく、永久に使用する施設を建造することも可能だった。「覚書」は、日本大博覧会の会場予定地をそのまま明治神宮の敷地としただけではなく、博覧会終了後に計画されていた公園を、外苑として実現する案でもあったのだ。
「つまり日本大博覧会の会場は確かに代々木御料地と青山練兵場とが予定されていた。のみならず、敷地の借用や所管換え、さらには周辺の土地の買収へも着手されていた。中止となった日本大博覧会の予定地が神宮へと生まれ変わったということは、間違いなく正しい。~中略~「覚書」は、日本大博覧会の会場予定地をそのまま明治神宮の敷地としただけでなく、博覧会終了後に計画されていた公園ができる暁にはつくられそうなものを、同じ土地に、ただし外苑という名のもとに、つくろうとした案でもある、と。」
内苑に代々木御料地、外苑に旧青山練兵場が、最有力候補であることは間違いなかったが、東京中心との批判を免れるため、「覚書」にはその他の候補地も列挙されていた。候補地の名乗りを上げる自治体は少なくなかった。*13「明治神宮を東京へ!」という主張は、明治天皇の生まれた京都に御陵を、居住していた東京都に明治神宮をそれぞれつくって、東京と京都のあいだで、棲み分けを行おうとするものだった。候補地の選定で焦点となったのは「由緒」と「風致」だった。
「由緒」とは明治天皇とその場所との関わりの深さである。また「風致」とは明治天皇を祀るにふさわしい「景勝」や「体裁」をその場所が備えているかということだ。一言でいえば「由緒」は歴史的環境、「風致」は自然的環境を根拠にしていた。「由緒」では天皇が所在した東京が有利だったが、風致では自然の豊かな地方が有利だった。東京とそれ以外の候補地との争いは、「由緒」と「風致」のいずれを重視するかという対立でもあった。
結論を言えば、「由緒」がより重視されることとなった。候補地選定は、東京都内の候補地による、二次選考へと移行する。しかし、すでに「覚書」の強い影響下にあった東京都の候補地の間では、深い議論はなされなかった。そもそも内務省の規制があり、競合する案を実現するためには様々な調整が必要だった。また、規模の大きさを考慮すれば、自治体にとどまらず、国の関与も避けられなかった。これらの課題の多くをすでにクリアしていた大博覧会予定敷地が有利であることは疑いようがなかった。
「『覚書』の極めて強い影響下にあった東京内の候補地は、東京外の候補地のような特色ある議論を展開していない。神社を勝手につくることへは内務省の規制があったし、構想された神社の規模からいって、そもそも自前でつくれるものではなかった。その上いくつもの案が競合しており、相互の調整も欠かせない。こうして民間の諸案は、なんらかの形で国側と接触する必要があった。国費で建造しようというなら、なおさらである。」
明治天皇の大喪(9月13日?15日)後の9月27日、「覚書」は正式に議会に提出された。貴族院では「請願」という形式が取られ、天皇の遷都と居住という「由緒」を理由に、東京に「荘厳」なる神宮の建設を求めるものだった。一方、衆議院ではより重みのある「建議」案として提出された*14。同じ日には、増田儀一*15による「明治天皇頌徳記念事業に関する建議案」も提出された。増田は主宰する雑誌『実業之日本』で、「明治の聖代は何を以て記念し奉るべきか」といったキャンペーンを行なっており、建議の提出はその実践として理解することができる」と主張していた。
この2つの建議案は一括して委員会で協議され、3月26日には、両案とも満場一致で通過した。 ------------------------------------------------------------------------------------後編につづく
<脚 注>
*1山口輝臣(やまぐちてるおみ)1970年,横浜生まれ。東京大学教授。1992年,東京大学文学部国史学専修課程卒業。1998年,東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了,博士(文学)。九州大学大学院人文科学研究院准教授 【主な編著書】『明治国家と宗教』(東京大学出版会,1999年),『明治神宮の出現』(吉川弘文館,2005年),『天皇の歴史09 天皇と宗教』(共著,講談社,2011年)
*2天皇の死とその周辺については、そもそもそれ(践祚と改元)すら存在しないところが数多くあった。とりわけ死にともなうもっとも基本的な行事ともいうべき葬儀と墓についての規定、すなわち喪儀と陵墓に関する法令はまったく存在していなかった。?中略~そしてこの空隙は、明治神宮の外苑が完成を見たのと同じ大正十五年(1926)十月、大正の終末を見越して皇室喪儀令や皇室陵墓令が公布されるまで、解消することはなかった。関係者の回顧によれば、これは明治天皇が慎重に検討をしたためといい、巷間ではもっぱらこう伝えられていた。「陛下には『朕に適用さる式令だの』と仰せられて、時の宮内大臣は恐懼措くあたはざりしとの事」(『時事新報』大正元年七月三十日)。*本書より抜粋
*3渋沢栄一(しぶさわえいいち)1840-1931(天保11-昭和6) 実業家。現在の埼玉県深谷市で裕福な農家に生まれる。実家の畑仕事や養蚕を手伝いながら、若いころより本格的に論語を学ぶ。離郷して一橋慶喜(のちの江戸幕府15代将軍、徳川慶喜)に仕え、一橋家の家政の改善などに尽力した。27歳のとき、慶喜の実弟・昭武とともにパリ万博を訪れて欧州諸国の近代的な政治や経済、文化のありようについて造詣を深める。帰国して大蔵省に勤務した後、実業家として生涯に約500の企業設立や運営に関わり、約600の教育機関・社会公共事業の支援および民間外交に貢献した。関わった企業・組織には、日本初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)や、日本郵船、東京電力、田園都市(現・東京急行電鉄)、一橋大学、東京証券取引所など がある。2024年に刷新される1万円札の肖像画に起用される予定。(2020-2-18) 出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
*4阪谷芳郎(さかたによしお)1863‐1941(文久3‐昭和16) 明治・大正・昭和期の財政 家,政治家。岡山に儒家阪谷朗盧の四男として生まれた。渋沢栄一の女婿。1884年東京大学文学部政治理財科を卒業,直ちに大蔵省に入る。以後主計官,造幣支局長,総務局長,次官として財政の中枢を担い,その間,日清,日露戦争中の財政処理に当たる。1906年西園寺公望内閣の大蔵大臣に就任した。07年勲一等,男爵に叙せられる。退官後,東京市長を経て,17年貴族院議員に互選され,男爵議員を中心とする公正会の指導者として活躍した。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
*5柿沼谷蔵(かきぬまたにぞう)1854-1920(嘉永7-大正9)上野国館林(群馬県)生まれ。旧姓は増山。慶応元年(1865年)江戸に出て綿糸業・柿沼谷蔵の店に奉公し、その人物を認められて同家の養子となり、明治12年家督を継ぎ先代の名を襲名して谷蔵と改名、以来業務を拡張して業界にその名を知られるところとなる。更に下野紡績(のちの三重紡績)社長のほか、東京瓦斯紡績、富士瓦斯紡績、東亜製粉、帝国海上保険、第一生命保険などの重役を務め、東京商業会議所特別議員となり実業界で重きをなした。一方、18年から日本橋区議となり公共・教育事業に貢献、日本橋倶楽部、日本橋女学館などの創立にも関わる。大正5年家督を長男に譲り、名を谷雄と改め専ら公共事業に尽力した。出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
*6中野武営(なかのぶえい)1848‐1918(嘉永1‐大正7) 明治,大正期の実業家,政治家。本来の名前の読みは〈たけなか〉で、〈ぶえい〉は通称。高松藩士の子として生まれ,藩校講道館に学ぶ。1872年(明治5)香川県の官吏となり,のち農商務省権少書記官となる。明治14年の政変(1881)では大隈重信,河野敏鎌らとともに辞職し,改進党創立に尽力する。1890年の第1議会以来衆議院議員に当選8回。この間,東京株式取引所副頭取,理事長,次いで関西鉄道会社社長など各種会社と関連し,1905年,渋沢栄一の後を受けて東京商業会議所会頭となる。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
*7近藤廉平(こんどうれんぺい)1848‐1921(嘉永1‐大正10) 明治・大正期の海運界の重鎮。阿波国麻植郡西尾村生れ。医師玄泉の次男。私塾から大学南校へ進む。星合常恕に従って高知に行き,岩崎弥太郎に知られ,1872年(明治5)三菱会社に入った。吉岡鉱山,高島炭鉱の経営改善で名をあげ,83年三菱汽船横浜支店支配人に抜擢(ばつてき)され,共同運輸との死闘に活躍した。85年日本郵船が成立すると横浜支店支配人に転じ,東京支店,本社の各支配人,理事を歴任し,95年社長に就任した。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
*8早川千吉郎(はやかわせんきちろう)1863-1922(文久3-大正11)明治-大正時代の官僚,実業家。加賀金沢藩士の子。明治23年大蔵省にはいり,各種銀行の設立に参画し,貨幣制度調査会幹事となる。33年三井に入社し,のち三井銀行専務理事,常務をつとめ,大正10年満鉄社長。大正11年11月14日死去。60歳。帝国大学卒。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
*9星野錫(ほしのしゃく)1855-1938(安政1-昭和13)明治?昭和期の実業家 東京印刷社長。江戸生まれ。姫路藩校に学び、明治6年印刷職工となった。20年印刷業視察に渡米、帰国後王子製紙入社。29年東京印刷株式会社を創立、専務、社長となった。以後、衆院議員、東京商業会議所副会頭、東京事業組合連合会会長などを歴任。また北海道拓銀、マレーゴム、大日本水産会、大日本製糖、東亜石油などの社長、役員を兼ね、政財界の世話役に任じた。出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
*10八月一日、河村宮内次官が、大喪を青山練兵場で行うこととともに、陵は京都府下紀伊郡堀内村旧称桃山城址に内定していることを公にした。法令を根拠にできないこの決定は明治天皇の意思によるものとされた。(本書より抜粋)
*11角田真平(つのだしんぺい)1857-1919(安政4-大正8)明治-大正時代の政治家,俳人。明治13年代言人(弁護士)となる。15年立憲改進党の結成にくわわり,東京府会議員,東京市参事会員をへて25年衆議院議員(当選7回)。俳句結社秋声会を主宰した。駿河(するが)(静岡県)出身。号は竹冷(ちくれい),聴雨窓。著作に「聴雨窓俳話」「俳書解題」など。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
*12博覧会は、神社や公園などとは違い、期間の限定された一時的なものである。すると期間終了後どうするかということも、これまた考えざるを得ない。跡地利用の問題である。実はこれについては、明治四十年(一九〇七)十二月という計画のかなり早い段階で、半分ほど決まっていた。東京市が、「博覧会閉会後に於て、市の公園に供し度」いと願い出たのに対し、政府側が許可したのである。なお、半分ほどといったのは、これが青山練兵場会場、つまりのちに明治神宮外苑となる土地のみについてのことだからである。(本書より抜粋)
*13候補地は陸軍戸山学校敷地、御嶽山など東京府内に15ヶ所、東京以外では、千葉県国府台、埼玉県は朝日山、宝登山、城峰山の3ヶ所、神奈川県は箱根、横浜の2ヶ所、静岡県富士山、茨城県は筑波山、国見山の2ヶ所など計25ヶ所に及んだ。(本書より)
*14議員法の規定では、請願が、国民の願望を各院が取り次いで政府へと送付するものであるのに対し、建議は院の意見として、政府へ呈出するものとある。つまり請願とは違い、建議は院で主張を一本化する必要がある分、請願より重みのある形式であった。(本書より抜粋)
*15増田儀一(ますだぎいち)1869-1949(明治2-昭和24)明治-昭和時代の出版人,政治家。明治2年10月21日生まれ。読売新聞記者をへて,明治33年実業之日本社を創立して社長となる。「実業之日本」「婦人世界」などおおくの雑誌を刊行。大日本印刷などの創立にかかわる。45年衆議院議員(当選8回,日本進歩党),昭和6年副議長。日本雑誌協会会長。昭和24年4月27日死去。81歳。越後(えちご)(新潟県)出身。東京専門学校(現早大)卒。出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
▲ 1926年に完成した神宮外苑の平面図。
施設は少なく広大な緑のオープンスペースが特徴。
江戸東京博物館所蔵 資料番号/88108185。