第二十二回 「彼らは貧乏だ、しかし高貴だ」
書名 日本絶賛録(2007年 小学館)
著者 村岡正明
* 太字部分 本書より引用
ようやく新型コロナの感染拡大が収まり、海外から再びたくさんの観光客が来日するようになった。日本の人気は高く、その魅力を讃える報道が連日マスメディアやネットをにぎわしている。来日した外国人が日本を讃えるのは、もちろん今に始まった話ではない。むしろ遥か昔に日本を訪れた外国人の方が日本と日本人に対する評価は高かったかもしれない。本書を読むとそのように思えてくる。
西欧人による、日本人についての最初の公式報告は、日本にキリスト教を伝来したスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルによってなされた。1549年(天文18年)、ザビエルが鹿児島に上陸してからわずか2ヶ月半後のことである。
「先(ま)ず第一に、私達が今までの接触に依って識ることのできた限りに於いては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交って頗(すこぶ)る感じがよい」(聖フランシスコ・ザビエル書簡集〔下〕アルーぺ神父・井上郁二訳、岩波文庫、1949)
ザビエルの日本人に対する評価は高い。「日本人は武士であろうと平民であろうと、また富裕であろうと貧乏であろうとも、極めて名誉心の強い国民である」「生活には節度があり大部分の住民は読み書きもできる」「妻は一人しか持たず、盗みについてはこんなに信用できる国民をみたことがない」などなど。西欧人から見て、日本人ははじめから特別な存在だったようだ。
ザビエルの来日から約300年を経た1854年、吉田松陰は同志の金子重之輔とともに、日米和親条約締結のために、下田に停泊していた米国の艦船ポーハタン号に乗り込み、艦長のマシュー・ガルブレイス・ペリーに、米国への渡航を談判した。命がけで乗船してきた二人の若者についてのペリーの感想を、当時の資料から知ることができる。
「彼等は率直に、自分達の目的は合衆国につれて行って貰いたいのであり、世界を旅行し見聞し度(た)いという希望を合衆国で充たし度いのだと打ち明けた。(中略)彼等は教養ある人達で、支那官語(the mandarin Chinese)を流暢に形美しく書き、その態度も鄭重(ていちょう)で極めて洗練されていた。(ペリー)提督は来艦の目的を知るや、自分は日本人をアメリカへ連れて行き度いと思うこと切であるけれども、両人を迎えることが出来ないのは残念であると答えた。(中略)この事件は、同国の厳重な法律を破らんとし、又知識を増すために生命をさえ賭そうとした二人の教養ある日本人の烈(はげ)しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。 日本人は疑もなく研究好きの人民で、彼等の道徳的並びに知識的能力を増大する機会を喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、同国人の特質より出たものであったと信ずるし、又人民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。ところでその実行は、最も厳重な法律と、それに違反させないようにするための絶えざる監視とによってのみ抑えられているのである。日本人の志向がかくの如くであるとすれば、この興味ある国の前途は何と味のあるものであることか、又附言すれば、その前途は何と有望であることか!」(『ペルリ提督日本遠征記(四)』フランシス・L・ホークス編、土屋喬雄・玉城肇訳、岩波文庫、1958)
ペリー曰く「松陰と重之輔には教養があり、態度は丁重で洗練されていた。ぜひともアメリカに連れていきたいと思ったが、それは(日本の)法律に違反することであり、かなわないことである。誠に残念である。日本人は研究熱心で、道徳的並びに知識的な能力を増す機会があれば、いつでも喜んで受け入れる国民である。二人の行動もこの日本人の特質から出たものであり、それは人々の好奇心の強さを示している。厳重な法律と絶えざる監視が、その実行を阻んでいるのである。日本人の志向が彼らと同じように、強い好奇心と知識欲にあるならば、この国の将来は有望である」。
ペリーは日本人の好奇心と知識欲の強さ、そして行動力を高く評価していた。
全国民に美意識が浸透していると言うのは、インド人のノーベル賞文学者ラビンドラナート・タゴールだ。
「他の国では、有能で監視眼のある人たちのあいだにのみ、美を味わう能力が見られるが、この国では、全国民のあいだにそれがひろがっている。ヨーロッパでは、万人のために普通教育がおこなわれ、またその多くの国々では、国民に軍事教練が普及しているが、世界の他のどこでも、この国に見られるような国民的美意識の修行が浸透しているところはない。ここでは、国民全体が美の前に降伏してしまったのだ」。(『タゴール著作集(第十巻)』「日本紀行」森本達雄訳、第三文明社、1987)
日本人の美意識の高さを礼賛する外国人は多い。アメリカの女性教育者で津田塾大学の設立に関わったアリス・マン・ベーコンは、日本人の本能的な美意識は、作り出すものすべてを美しくすると言う。
「日本の職人は、本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。」(『華族女学校教師の見た明治日本の内側』久野明子訳、中央公論社、1994)
「ひまわり」で有名なオランダ人画家ビンセント・ヴァン・ゴッホは、日本人の自然を大切にする生き方に注目した。
「いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因習的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ」(ゴッホの手紙〔中〕〈テオドール宛〉J・V・ゴッホーボンゲル編、硲 伊之助訳、岩波文庫、1961)
日本人の樹木を愛し、いたわる心が日本の樹木の類まれな美しさもたらしたと言うのは、ギリシャ生まれのイギリス人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。
「いったい、日本の国では、どうしてこんなに樹木が美しいのだろう。西洋では、ウメが咲いても、サクラがほころびても、かくべつ、なんら目を驚かすこともないのに、それが日本の国だと、まるで美の奇蹟になる。その美しさは、いかほど前にそのことを書物で読んだ人でも、じっさいに目のあたりにそれを見たら、あっと口がきけなくなるくらい、妖しく美しいのである。葉はいちまいも見えず、ただもう、一枚の大きな薄い膜をかけたような花の霞なのだ。ひょっとしたら、この神ながらの国では、樹木は遠い世のむかしから、この国土によく培われ、人によくいたわり愛されてきたので、ついに樹木にも魂がはいって、ちょうど愛された女が、男のためには紅鉄漿(べにかね)(注1)つけて容(かたち)を美しくよそおうように、樹木もまた心を入れて、礼ごころをあらわすものなのだろうか」。(『小泉八雲作品集(5)「日本瞥見記(上)」平井呈一訳、恒文社、1964)
日本人は古来より樹木をいたわり愛してきた。その愛情が日本の樹木をこれほどまで美しくしたのだとハーンは言う。この言葉は近代化の名のもとに樹木を伐採してきた、現代の日本人に重くのしかかる。我々は、美しい樹木を前にして、その美しさをもたらしてくれた先達への感謝の気持ちを失ってはいないだろうか。
ハーンは東京大学の講義で、「倫理的な美は知的な美より優る」というハーバート・スペンサー(注2)の言葉を紹介している(注3)。倫理的な美とは何か、それは平たく言えば「心の美しさ」である。いたるところで、日本人の心の美しさに接してきたハーンは、このスペンサーのことばを実感していたのではないだろうか。市井の日本人たちから受ける厚意と親切の数々。誠実を旨とし、お礼をしようとしても、受け取らないか、受け取ったとしても、決められた報酬以上は受けとろうとしない。けっして裕福なわけではない。むしろ貧乏である。しかし幸せそうだ。家族に寄り添い、子供をかわいがり、自然を愛し、四季を楽しむ術を心得ている。美意識は高く生活は簡素で清潔だ。ハーンに限らず、多くの外国人が日本人の生活態度に感銘を受けた。
大正時代の駐日フランス大使ポール・クローデルは、日本の敗戦が濃厚になりつつあった1943年、詩人で思想家のポール・ヴァレリーに次のように語っている。
「私が滅びないことを願う一つの国民がある。それは日本人だ。あれほど興味ある太古からの文明を消滅させてはならない。日本は驚くべき発展をしたが、それは当然で、他の如何なる国民にもこれ程の資格はない。彼らは貧乏だ、しかし高貴だ、あんなに人口が多いのに」(市原豊太著『言霊の幸ふ国』神社新報社、1986)
今も、世界中の人々が日本を訪れ、日本人の振る舞いや心情に触れて感動したという声をよく耳にする。外国人の心を魅了し続けてきたもの、それは一言でいうなら日本人の「心の美しさ」なのではないだろうか。古来より脈々と受け継がれてきた、この「心の美しさ」こそ、日本の最も貴重な財産であり、けっして失ってはならないものである。
日本人はこの先再び貧乏になるのかもしれない。しかし「心の美しさ」さえ失わなければ、日本人はいつまでも尊敬され続けるであろう。そして、いつの日か多くの外国の人びとから支持されて、日本は再び力強く復活するに違いない。
了
(注1)紅とお歯黒。転じて、化粧(小学館 デジタル大辞泉より)
(注2)ハーバート・スペンサー【Herbert Spencer】1820‐1903 19世紀イギリスの哲学者,社会学者。ダービーに教員を父として生まれた。学校教育を受けず,父と叔父を教師として家庭で育った。ロンドン・バーミンガム鉄道の技師(1837‐45)および《エコノミスト》誌の編集部員(1848‐53)を経て,1853年以後死ぬまでの50年間はどこにも勤めず,結婚もせず,秘書を相手に著述に専念した。大学とは終生関係をもたない在野の学者であったが,著作が増えるにつれて彼の名声はしだいに高まり,とりわけその社会進化論と自由放任主義はJ.S.ミルや鉄鋼王A.カーネギーをはじめ多くの理解者,信奉者を得て,当時の代表的な時代思潮になった(平凡社世界大百科事典 第2版より)
(注3)「知的生活は物質的生活よりもより高いものを表しているし、また倫理的生活は、この知的および物質的生活の二つよりもさらにいっそう崇高なものを表している、とみなしてもよいと思われる。要するに、倫理的な美が知的な美よりもはるかに優っているというハーバート・スペンサーの見解は、この問題の解答に対する格好の指針となっている」(小泉八雲東大講義録〈日本文学の未来のために〉ラフカディオ・ハーン 池田雅之=編訳 角川文庫 2019)
参考コラム>
第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」https://edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2020/05/9.html