書名 懐旧九十年(1983年 岩波文庫)*1
著者 石黒 忠悳(いしぐろただのり)*2
『 』部分 本書より引用
陸軍衛生部軍医制度に生涯を捧げた医師、石黒忠悳の回顧録である。
本書には、歴史を彩った偉人が多く登場する。西郷隆盛や山縣有朋、大山巌など維新の元勲をはじめ、後藤新平、陸奥宗光、児玉源太郎、中江兆民、森鴎外、三遊亭円朝など、その顔触れは多士済々である。本書では人間模様のひとつひとつが、臨場感をもって伝えられており、単なる回顧録を越えた、日本近代史の貴重な記録と言えよう。すべてを紹介できないので、テーマを絞り、今回と次回の2回に分けて内容の一部を紹介したい。前半では著者が医学を志して医学所に進み罷免されるまでを、そして後半では兵部省に転じてからの、軍医としての活動に焦点をあてる。
御家人の家に生まれた石黒は、なぜ医学を志すようになったのか。きっかけは、佐久間象山*3との出会いにあった。19歳のとき、石黒は尊王攘夷の思いを伝えるために、信州松代に佐久間象山を訪ねている。象山の言葉は石黒をおおいに感化し、その後の進路に大きな影響を与えた。尊王攘夷思想への熱い思いを語る石黒に、象山は次のように返した。
『足下ら同志の期するところも皇政復古にあるようだが、この大事を完成するには今の封建を革め郡県にせねばならぬ。そうすると士・農・工・商の別は廃せられることとなる。農・工・商は暫く措いて、士に至ってはすべて俸禄から離れることになるから、何かの生業に就かしめねばならぬ。ところが、三百余年の士の生活は、いずれにも不向きであろう。自分にも成案はないが、この点が実に困難なる問題である。足下らも尊皇論を唱道するからには、かくの如きことまで思い及ばさねばならぬ。』
思いもよらない象山のことばに石黒は言葉を失う。
象山の眼差しは、幕府が倒れた後に向けられていた。維新後には、多くの士族階級が収入を失うであろうことを予見し、その処遇を案じていたのだ。それは石黒本人にも関わることであった。象山の言葉はさら続く。
『西洋の学問の進歩は恐るべきものである。足下ぐらいの若者は充分我が国の学問をした上、更に西洋の学問をなし、そしてそれぞれ一科の専門を究めることにせねばならぬ。また、そのうちからしっかりした者を西洋に遣し修業せしめることが肝要である。かくて、それぞれの専門家を集めて、国の力を充実し兵備を完成しなければならぬ。足下のような若者はこの心懸けで、身体を達者にしてそれぞれの学問をして行くことが責務であって、徒に悲歌慷慨(ひかこうがい)*4したり、軽躁に騒擾憤死するようなことでは君国のために何の役にも立たぬ。?中略~青年はそれぞれ一科の学問を修め、研究を遂げてその結果を挙げるに力(つと)めることが結局、今後、真の攘夷の方法である。』
西洋の学問の進歩の実態を踏まえるなら、まずは自国の学問を習得し、その上で西洋の学問を学ぶべきである。そしてその中から自ら専門とする分野を選んで、それを究めるべきである。優秀な者はさらに海外で修業させて、それぞれの分野の専門家を育成し、国力を充実させねばならない。若者の責務は、身体を健康に保ち学問に専心することである。いたずらに悲しんだり憤ったり、軽率に騒いで命を落としたりしてはならない。それぞれが専門とする学問を修め、研究を進めて結果を出すことが、結局は真の攘夷の方法である、と象山は説いた。
このとき石黒には、象山の考えが承服できなかった。「洋書を視ると目がつぶれてしまう」と思うほどに、西洋を嫌悪していたからである。洋学を修めることなど論外であった。石黒は象山への弟子入りを断念して当地を去ることを決心する。
別れを告げる石黒に対し、象山は次のように声をかけた。
『足下のようにまだ春秋に富んでいる者は、今しばらくさようなことを言うていてもよかろう。しかし、早晩必ず横文字を読まねばならぬ場合になる。その時になって初めて横文字は物好きで読むのではない、読まねばならぬ必要があるのだということを自覚するであろう。今のような説を吐くのも、しばらくの間に過ぎなかろう。』
両親の残してくれた遺産は底を尽き始めていた。幕末において、裕福な武士は限られていた。石黒にも新たに職業を探して生計を立てる必要が生じていた。20歳のことである。
思案の末、石黒は故郷で整骨医を開業することを決心する。石黒は江戸にもどり、当時名人と言われた整骨医の名倉弥五郎に弟子入りすることにした。
早速弥五郎を訪ねて弟子入りを願うと、意外なことに断られてしまう。当然引き受けてもらえると思っていた石黒は納得がいかない。なぜ引き受けられないのか、理由を問いただすと、弥五郎はあっさり答えて言った。
『それは善い御問いです。それについて御話ししたい。 中略~ 弟は今、松本良順先生に随い、長崎で西洋医学の修業中、倅はまだ八歳ですが、これも成長したら米国に出し、西洋流の医者にするつもりです。私の整骨術も『解体新書』という西洋翻訳の解剖書を見てからメッキリ進みました。それで私は、医学はどうしても西洋医学でなければならんと考えています。今、貴君の学歴・人格を以ってして、我が子にも望ましからぬ、範囲の狭い整骨術だけを専門にやらせるということは、いかにもお気の毒である故お断りするのです。貴君が一般医学を修めた後に、整骨術を学習なされたいならば、私は悦んで蘊奥をお授けしましょう。』
このように言われてしまったら石黒も引き下がるよりない。西洋医学を修めてから入門するかもしれないので、その節はよろしくお願いしたい、と言い残してこの場を辞するよりなかった。
西洋医学とはそれほどまでに優れたものなのか。
石黒の脳裏には、象山のことばがよぎったに違いない。悩みに悩んだ末、石黒は日本古医学と漢方医学、そして西洋医学を比較してみて、西洋医学が本当に優れているかどうか確認することにした。その結果、最も真実に近いのは西洋医学であることを確信する。
『私は日本医学の大家佐藤民之助氏を訪うて、日本古医学の大要を聴いてみました。それから漢方については田村という友人が、当時、漢方の大家として学問にかけては浅田宗伯以上と言われた尾台良策の塾におったから、その人に就いてその大要を聞き、その人の示すところによって吉益南涯著『傷寒論精義』という書を読んでみました。次に西洋医学に転じて、私は英人合信(ハブソン)著『全体新論』『西医略論』を読んでみました。そうして三つを比較すると、合信の所説が一番真に近いと感じました。』
石黒は西洋医学を学ぶ決心をした。
思い起こされるのは佐久間象山のことである。
象山は、石黒が訪問した翌年、元治元年7月11日(1864年8月12日)に京都で浪士によって殺害されていた。石黒が西洋医学を学ぶ決意をしたのは、象山が暗殺されてからわずか数か月後のことである。石黒は霊前に赴いて、象山に詫びた。
『先生が凶刃に斃れて後数ヵ月にして、もう自発的に横文字を学ばねばならぬ必要に迫られました。それは私が西洋医学を修めることになったからです。その際、私は「祭ニ象山先生一文」一篇を作り、香を焚いて先生の霊前にお詫びを申しました。』
西洋医学を学ぶために、石黒が最初に師事したのは、医家の柳見仙(やなぎけんせん)だった。柳からは医学と蘭学を学んだ。教科書は当時競って読まれていた、朋百(ポンぺ)*5伝習の『医学七科書』*6の写本である。
日夜勉学に励んだおかげで、やがてオランダ語を解読できるようになり、治療の理解も深まると、そろそろ故郷に帰り開業医となるべきではないだろうか、という考えが石黒の脳裏に浮かぶようになる。しかしここでも気がかりなのは象山の言葉である。田舎で開業医となることは象山先生の思いに反することではないか。思い直した石黒は江戸にとどまってさらなる精進を決意する。
『かくの如き姑息の心を出してはさきに医学に志を向けた一念と違う。本当の医学者になり、医界にあって時勢に遅れず、遂に我が国の医学をして西洋各国の医学と並んで馳せ行く程度にまで進歩せしめ、この方面で彼の攘夷の実を挙げることをどこまでも慣行せねばならぬと決心しました。』
慶応元年(1865)の冬、21歳の石黒は、当時できたばかりの江戸医学所*7に入学した。そして明治元年(1868)に卒業した後も、苦読師(下級教官)としてとどまった。幕府直轄だった医学所は、維新後に大学東校(東京大学医学部の前身)となる。
維新に際し、医学所を離れていったん帰郷していた石黒は、明治2年(1869)に再び上京して大学東校に勤務し、翌年26歳で大学少助教兼少舎長となった。 すべてが順風満帆に見えた石黒だったが、転機は突然訪れる。明治4年(1871)、文部大臣が江藤新平から大木高任に代わると、その腹心であった書記官に楯突いたことが原因で、文部省を罷免させられてしまう。
しかし、優れた実務家であった石黒の評価は高く、まわりが放っておかなかった。
しばらくして兵部省から声がかかる。兵部省では、軍医制度創設を担う実務人材を探していた。兵部省にはまだ医官の職制がなく、軍医頭(ぐんいのかみ)に任ぜられていた松本良順*8は、軍医制度の創設を急いでいた。
後半につづく
*1懐旧九十年(1983年 岩波文庫)
本書では昭和11年2月に東京博文館より発刊された初版から七分の一弱が省略されている。(本書より)
*2石黒 忠悳
旧日本陸軍軍医総監・陸軍省医務局長。弘化2年(1845)に御家人であった父・平野順作良忠の勤務地であった岩代国(福島県)に生まれた。安政2年(1855)に父を、5年には母を亡くし、14歳にして自立を余儀なくされる。万延元年(1860)、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市)の石黒家の養子になり、当地で私塾を開いた。その後、医学を志して江戸へ出て、幕府医学所を卒業後、医学所句読師となる。後に兵部省に転じ、山縣有朋や大山巌に徴用されて陸軍医として活躍、当時の医学界の事実上のトップであった軍医総監にまで上り詰めた。(本書より)
*3佐久間象山 (1811?64)
幕末の朱子学者・蘭学者・兵学者。「ぞうざん」とも読む。信濃(長野県)松代藩士。佐藤一斎に朱子学を学ぶ。のち蘭学に励み,江川太郎左衛門の門に入り洋式砲術を学ぶ。1851年江戸に塾を開き砲術・兵学を教え,西洋技術と東洋精神の融合を説く(東洋の道徳,西洋の芸術)。勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰らがその門から輩出。開国論を主張し攘夷論者に京都で刺殺された(旺文社日本史事典 三訂版より)
*4悲歌慷慨(ひかこうがい) 社会の荒廃や自らの人生の悲劇を、悲しく歌い、また憤って激しく嘆くこと。悲痛で壮烈な気概のたとえ。(学研 新明解四字熟語辞典より)
*5朋百(ポンペ) 【Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort】(1829‐1908)
幕末に来日したオランダの海軍軍医。日本が系統的な西洋医学を導入するのに大きな役割を果たした。ベルギー生れ。ユトレヒト大学卒,海軍軍医となり,1857年幕府から招かれ第2次海軍伝習所医官として着任。在日5年間,幕府医官松本良順を中心に全国から集まった医学生を中心に,人体解剖・臨床医学講義を含む幅広い教育を行い,これらの多くは講義録として残されている。コレラ予防,性病予防,種痘にも従事。61年彼の要請で長崎養生所を建てたが,これは,日本における近代病院の最初であるとともに,長崎大学医学部の原点ともなっている。(株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)
*6『医学七科書』 幕府の官医・松本良順が幕命で長崎に赴き、蘭医朋百(ポンぺ)から講受した『医学七科書』の聴講録で、七科とは、物理学・化学・解剖学・生理学・病理・内科・外科で合計45冊あった。従来は、西洋医学と言っても、ただ内科・外科・解剖書等を読んで治療するに過ぎなかったが、爾後は理学・化学・解剖・治療というように順序を立てて学ぶこととなったのは、この朋百(ポンぺ)氏の教則と松本良順の昌道とで始まったもので、これが日本の近代医学発達の基礎となった。(本書より)
*7江戸医学所 この医学所は、伊東玄朴氏の大尽力によって当時出来たばかりのものです。そのことは後に述べますが、その初めは在江戸の西洋医家の篤志家が協力して、神田のお玉ヶ池の種痘所を設けたのが基で、それからおいおいと発達して、医学講習所となり、更にこれを官に寄付して官立となり、西洋医学所と改称し、その後西洋という二字を取り去って単に医学所という名称になったのでした。これこそ今の東京帝国大学医学部の前身です。(本書より引用)
*8松本良順 (1832~1907)医師。佐藤泰然の次男として生れ,のち幕府医官松本良甫の養子となる。安政4年 (1857) 幕命により長崎に留学,蘭医 J.ポンペについて西洋医術を学び,文久1年(1861) に創立した長崎養生所でポンペを助けて教育と臨床にあたった。同3年6月江戸に帰り,緒方洪庵の跡を継いで幕府の西洋医学所頭取となった。維新の戦いには幕軍方に投じ,官軍に捕われて明治2年(1869) に釈放された。翌年,早稲田に蘭疇医院を開き治療と教育を行なったが,軍医制度発足にあたり山縣有朋の要請で兵部省に出仕。 1873年初代陸軍軍医総監,のち貴族院議員となり,男爵を授けられた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)