書名 「蘭学事始 付・形影夜話」(1980年 教育社新書<原本現代訳>54より
形影夜話 佐藤昌介校注(日本思想大系64所収)現代語訳
著者 杉田玄白著・浜 久雄訳
*『 』部分 本書より引用
日本最初のオランダ語の翻訳書は、杉田玄白*1が前野良沢*2らと訳したオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」すなわち「解体新書」*3である。翻訳作業は困難を極め、完成までに約4年の歳月を要した。
玄白はなぜオランダ医学書の翻訳を思いたったのだろうか。
玄白は晩年の著書「形影夜話(けいえいやわ)」*4で、当時の心境を語っている。意外なことに、きっかけは荻生徂徠*5の兵学書「鈐録外書(けんろくがいしょ)」*6だった。そこには、本当の戦さというものは、学者が教えるのとは違って、大将が軍事理論に沿って判断し、勝敗はそのときの条件によって決するものだ、と書かれていた。
医療もまた軍事と同じではないか。すなわち、理論を学んだ医師が判断し、治療の成否はそのときの条件によるからである。では学ぶべき理論とは何か。それは当時の最先端であったオランダの医学理論であると玄白は考えた。オランダ医学では、医師を志すものは、まず第一に、身体の構造について学ぶべきである、と唱えていた(玄白らは翻訳に先立ち、実際に人体解剖を行い、原書の解剖図が正しいかどうか確認している)。孫子*7や呉子*8の兵法が戦さの原理であるように、身体の構造についての正確な知識は医学の原理である。原理を知らなければ、戦さでも医療でも、勝利は覚束ない。
もちろん、知識だけで的確な治療を施すことはできない。
名医になるためには、豊富な臨床経験が必要である。医療技術を上達させるためには、貧しくて身分が低かろうと、金持ちで身分が高かろうと、招かれたらでかけて行き、頼まれたら自分の妻や子供が患っているように思って親切に、一人でも多く治療するべきであると玄白は言う。
ところで、病気には治りやすい病気とそうでない病気があるが、難病への対処のしかたで、医者は上等、中等、下等に分けられると玄白は言う。
難病はほかの医者にゆずって、治しやすい病気だけ治療する医者は、下等である。このような医者は生涯、医術の向上は望めない。難病とわかってからも、患者のために苦心しようとしないで、治療法を変えない医者がいる。これは中等である。では上等の医者とはどのような医者のことを言うのだろうか。玄白は言う。
『上等の医者は、なおしにくいことはもとより知っていながら、患者の息がたえ、脈がなくなるまでは、なんとかして、かならず救ってやろうと、心をひそめ、思いをこがし、心力をつくして治療するものである。このようにすれば、百のうち一つぐらいはうまくいき、最終的に患者の命を救うこともあるものだ。死ぬまでは、このように心残りのないように全力を尽くしたいものである。』
とはいえ、力量が未熟であるにも関わらず、むやみに難病患者を引き受けるのは避けなくてはならない。
『医者だからといっても、自分が熟達していないことを、なんでもひきうけて、治療すべきことではない。(中略)自分がよく習熟していないことをやって、患者の治療を多くあやまり、そのうえ識者にわらわれるようなこともあるだろうと思う恥ずかしさのため、このたぐいの病気は、みな辞退して治療をひかえるのだ。これは、わたしが信念としているひとつである。』
今、世界中の科学者や医療関係者が、新型コロナという難敵の正体を突き止めるため、日々研究し続けている。その成果は論文となって、権威ある医学専門誌*9に公表され、世界中で共有されている。玄白らは解体新書の翻訳に4年を要したが、現代ではインターネットを通じて、数時間で最新の研究成果を共有することができる。最先端の医療知識をいち早く取り入れ、実践で活かすことが、可能になったのである。
最新の医療知識と、豊富な臨床経験から得られる経験知の重要性は、300年前に玄白によってすでに指摘されていた。最先端の研究成果に精通し、臨床経験が豊富な「上等」の医師は、我が国にもたくさんいるはずである。それが、今秋、急速に感染者が減少した要因のひとつと考えることはできないだろうか。感染の予防や拡大防止についても、専門家が最先端の知識をいち早く取り入れ、自国の条件にみあった対策を考えて政府に提言すれば、政治家は医療以外の条件をも考慮したうえで、具体的な政策を実施することができる。そうすれば、PCR検査の運用や、感染が拡大しているエリアでの医師や病床の確保など、個々の医師では解決できない問題についても、より合理的かつ効率的に対処できるのではないだろうか。
何れにしても、古い理論しか知らない、臨床経験の乏しい医師や専門家では、新型コロナのような未知の難敵との闘いに勝ち目はない。
『原理を学ぶことを第一とし、これを習得してのちに、治療の方法を理解する』
という玄白のことばを、私たちは、今一度思い起こしてみるときなのかもしれない。
了
*1杉田玄白(すぎたげんぱく) 江戸後期の医学者,蘭学者。名は翼(たすく),号は?、斎(いさい),九幸。若狭小浜藩医。明和8年(1771)前野良沢、中川淳庵と江戸小塚原刑場で刑死体の解剖を観察,蘭書《ターヘル・アナトミア》の正確さに驚き,《解体新書》訳述を遂行,蘭学の基礎を築いた。文才にすぐれ随筆が多く,《蘭学事始》《形影夜話》《野叟(やそう)独語》などの著書がある。子の立卿〔1786-1845〕,孫の成卿〔1817-1859〕も蘭方医として名高く,立卿は特に眼科にすぐれ,成卿は幕府の訳官,蕃書調所の教授として活躍した。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*2前野良沢(まえのりょうたく) 江戸中期の医学者,蘭学者。名は熹(よみす),号は蘭化。豊前中津藩医。初め古医方を学んだが,明和6年(1769)青木昆陽から,翌年長崎に行き通詞からオランダ語を学び,杉田玄白らと協力,《解体新書》訳業の中心となった。弟子に大槻玄沢らがある。著訳書《和蘭訳筌》《字学小成》など多数。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*3解体新書(かいたいしんしょ) 日本最初の西洋解剖学訳述書。安永3年(1774)刊。杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らの協力による。本文4巻と序・図1巻からなり,図は小田野直武の制作。本文はドイツ人クルムスの著書の蘭訳本、いわゆる《ターヘル・アナトミア》を訳したもので,のち大槻玄沢により《重訂解体新書》(文政9年(1826))として大成された。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより
*4形影夜話(けいえいやわ) 影法師との対話という形式で、老境の円熟期にあった杉田玄白の医学観を述べたもの。上下二巻。享和2年(1802)の11月に書かれ、長く弟子の間で筆者されて読み継がれていたが、文化7年(1810)11月に刊行された。「医学の今日的課題を的確にとらえ、つねに科学的合理主義の精神で貫こうとしている」(本書の訳者による解説より)
*5荻生徂徠(おぎゅうそらい) (寛文6年(1666)?享保13年(1728))江戸中期の儒学者。江戸の人。名は双松(なべまつ)。宇(あざな)は茂卿(しげのり)。別号、?園(けんえん)。また、物部氏の出であることから、中国風に物(ぶつ)徂徠と自称。朱子学を経て古文辞学を唱え、門下から太宰春台・服部南郭らが出た。著「弁道」「?園随筆」「政談」「南留別志(なるべし)」など。(小学館 大辞泉より)
*6鈐録外書(けんろくがいしょ) 荻生徂徠が守山藩の家老である岡田宣汎の質問に応じ、所感の形式で兵学を説いたもので、鈐とは錠まえのことで、兵法のポイントを収録した書物である(本書より抜粋)
*7孫子(そんし) 中国,春秋時代に成立した兵書。《呉子》と並称される。1巻13編で,始計,作戦,謀攻,軍形,兵勢,虚実,軍争,九変,行軍,地形,九地,火攻,用間からなる。最も広く読まれた兵法書。著者は斉の孫武または孫【ぴん】(そんぴん)といわれ,兵法をもって呉に仕えたという。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*8呉子(ごし) 中国古代の兵法書。《孫子》と並称される。作者とされる呉起〔?-前381〕は戦国初期に魏に仕えた。現在の通行本は,唐の陸希声の編。1巻。図国,料敵,治兵,論将,応変,励士の6編よりなり,儒教を加えた兵法書として古来広く読まれた。(株式会社平凡社百科事典 マイペディアより)
*9医学専門誌 New England Journal of Medicine (NEJM)、The Lancet、The Journal of the American Medical Association (JAMA)、Nature Medicineなど。
杉田玄白肖像 / 作者石川大浪画
文化9年(1812)正月、80歳を迎えた杉田玄白(1733-1817)の像。「蘭学事始」刊本掲載肖像の原画。
賛は玄白、「荏苒(じんぜん)太平の世に、無事天真を保つ、復是れ烟霞改まり、閑かに八十の春を迎う」と書している。
画家の石川大浪(1765-1817)は名を乗加(のりまさ)といい、旗本、大番組頭を務めた。
狩野派を学んだが、蘭書の挿絵銅版画などから洋風画に親しみ、弟孟高(もうこう)と共に蘭学者の依頼に応えて写生的な解剖図や彼らの肖像画を描き、わが国の洋画史上先駆的な功績を残す。重要文化財。国立国会図書館蔵