2021年10月アーカイブ

書名「世事見聞録」(1994年 岩波文庫)

著者 武陽隠士(本庄栄治郎校訂 奈良本辰也補訂)

 『 』 部分 本書より引用

 前回に続き、「世事見聞録」について紹介する。後編では、著者の国家再建案について考察する。

著者はどうしたら国家を建て直すことができると考えたのだろうか。

  何よりも、国家の根本を頑丈に修復しなければならないと著者は主張する。それは町人や遊民の台頭を阻止し、武士と農民の地位を回復することであった。そのために必要なことは三つ。すなわち、犯罪や不当な商いの大本である度を越えた贅沢や淫欲を断つこと、困窮者を救済すること、そして、故郷を捨てて町人や遊民に転じた者の多くを、再び故郷に返し農民に戻すことである。そうすれば都会の犯罪は減り、荒れてしまった地方は復興し、衰えてしまった民業の利益も増えて、国家の根本は堅固になるに違いない、と著者は考えたのである。

『世上の奢侈・淫欲の筋をことごとく断ちて、利欲犯奪の道を塞ぎ、福有を欠き、貧賤を救ひ、または都会繁花に充満したる町人・遊民、及びそのほか国々に至るまで、すべて遊食する輩を、過半元の土民に復するなり。これ国家を犯し費す利欲の賊を減じて国々荒廃の地を復し、労(つか)れ衰へたる民業を増益し、第一国の本を堅固に復する術なり。』

  国民も変わらなければならないと著者はいう。

身分の上下に関係なく、国民は倹約を旨とするべきである。衣食住は、不足すれば病気や短命の原因になるし、過剰になれば、驕りや怠惰、利欲のもととなり、何れも不善な行いに至ること必定である。今の世は不足している者と、過剰な者が多く、ともに不善をなしている。衣食住に過不足がなく平均的であれば、貧富や苦楽の差はなくなり、費用負担も減って、国民は安心して暮らせるようになるだろう、というのだ。

 

 『一体天下国家を治むるは、上下とも衣食住を安くする本とす。衣食住足らざる時は、あるいは病を生じ、あるいは短命し、あるいは不善をなせり。また衣食住余る時は、あるいは怠り、あるいは奢り、あるいは利欲に募り、かくの如く不善をなせり。足るもあし足らざる悪し。今世すでに偏りて、足らざる多く、余るもの多くありて、いづれともとも不善をなせり。これを平均し、貧福苦楽偏らざる時は、民安く治り安泰ならん。』

  国家の再建には、優れたリーダーの存在が不可欠である。

  著者の理想とするリーダーは、才知と徳行を兼ね備えた忠臣であり、艱難辛苦を一身に引き受けて、国家の存亡を左右する難題に立ち向かい、国民の安全を守り、不正と不道徳を退け、贅沢と安逸に遊んで暮らしているものは近づけず、無法者を罰し、無念の死を遂げそうな者を救い、国民の苦しみや悩みを解消してくれるような人物である。

 

ひねがはくは才徳兼備の忠臣世に顕はれて、身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社*1の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて君に奏し奉り、君*2と民の間に立ち、君命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、君の仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解き、民、君を悪給はず、この君をして堯舜*3の君たらしめ、この民をして堯舜の民たらしめ、天地を広大にして日月を清明にし、山川の鬼神を帰服せしめ、四時順気違はず、至治の沢、天下国家に及び、君富み、臣富み、民富むの大業を成就して、上下万世を諷(うた)ひ、羯鼓諫鼓苔を生ずる*4世を発すべき人傑を希所なり。』

  しかしながら、リーダーを期待された武士たちははなはだしく劣化していた。

武家の生活は華美になり、心身は虚弱で忠誠心も薄く、年長者を敬おうともしない。まるで公家か出家、婦人のように軟弱になり、町人や職人のような性根になり、義理も恥も知らない。勝手気ままに悪行を重ね、中には盗賊のようになってしまう者すらいた。

十人中、本物の武士と呼べるものは、もはや二、三人しかいなかった。その二、三人ですら、元禄や享保の武士に比べたらかなり劣っている。武士たちの多くは、国を治める役目を忘れ、国を乱すことばかりしたがるようになってしまった。

今は大名の地面広大にする事、制限なし。衣服の飾り美事になり、酒食の費え多くなり、居宅屋敷の大造になるに随って、内証だんだん減少し、殊に心身虚弱になり、忠信も薄くなり、孝悌の道も失ひ、前にもいふ如く、あるいは公家風になり、あるいは出家・婦人の如き人情になり、あるいは町人・職人などの心根になりて、義理も恥辱も知らず。あるいは放逸無慙のもの、あるいは種々悪行を尽くして盗賊に似寄りたるものになりて、たとへば十人の内七、八人までは右体の武士道を失ひて、実正の侍は十人に二、三人ならんか覚束なし。そのニ、三人も元禄・享保の頃の侍に競ぶれば、さぞ劣りたるものならんか。

一体、武士は国家を治むる役目なるが、その役目の事は打ち忘れ果て、へって天下を乱す事のみ欲するなり。』

江戸時代は封建制度*5の時代である。それは主君が家臣に与える封土(ほうど)を介した、主従関係による支配体制である。封土には、その土地の住民すなわち農民も含まれ、家臣は住民からの年貢(米)を収入としていた。著者の武陽隠士にとって、封建時代の理想は、「徳川幕府の絶対性を念頭に置いての」神国日本であり、「その本領を発揮した時代を二百年以前の神君、即ち徳川家康の時代として考えていた」(「 」内は本書解説より)。

すなわち、徳川家康の治世こそが著者の理想であり、家康の時代に返ることこそが著者の望みだったのである。

 しかしながら、本書が執筆されたのは、時代が大きく変わろうとするときであり、誰もが変化の大きなうねりの中にいた。もはや徳川家康の治世に戻ることは不可能であった。国民に倹約を奨励し、町人になった農民を帰郷させ、農民に戻したところで、変化の大きな流れを阻止することはできなかったに違いない。むしろ、なすべきことは、貧富の格差を是正するための税制改革と、不正を厳しく取り締まる司法改革ではなかったか。

 時代の転換期には、古い規制が進歩の足かせになってしまうことがありうる。同時に、既存法ではさばけない事例が増え、それにつけこんで不正に利益を得るものも出てくる。

大切なことは、時代の変化に対応した新しい法整備と、厳格に法を執行する為政者の覚悟である。法を犯すものは身分の上下に関わらず、厳しく罰せられなければならない。むしろ身分の高いものほど厳格に罰しなければならないだろう。身分が高ければ高いほど、国民に与える影響は大きいからである。贔屓や賄賂、あるいは忖度(そんたく)によって、法の公正がないがしろにされるとき、国家が衰退に向かうのは避けられない。

 その後日本は開国し、二つの世界大戦を経て民主主義国家へと生まれ変わった。高度経済成長期には、国民の所得は順調に増え、一億総中流を実現した。しかし、やがて成長が鈍化しはじめると、限られた成長の果実をどのように分配するかが、政策の大きな課題として再び浮上してきた。トリクルダウン効果*6が期待された新自由主義の経済政策は、望まれた成果を上げることができず、国民の貧富の格差は拡大した。

デジタル化と国際化は加速し、そこに近年の新型コロナによるパンデミックが加わって、今や世の中の仕組み自体が大きく変わろうとしている。封建主義と民主主義との違いはあるが、ともに転換期の時代であるという点で、文化文政時代と現代は似ていなくもない。

  求められているリーダー像もほぼ同じである。それは、主権者を君(将軍)から国民に代えて、著者の主張を読み替えてみればわかる。

すなわち、『身の艱難を避けず、天徳を履(ふ)みて、天下の艱難、国家の安危、宗社の存亡、世の邪曲、みな一身に請けて国民に奏し奉り、国民の間に立ち、国民の命を奉じ、新たに厳令を立て、驕奢・安逸・遊食の徒を避け、国賊無道を征して、万民の困窮及び屈死する助け、仁をことごとく民に及ぼして民の愁ふるところを解』いてくれるようなリーダーである。それは、昔も今も変わらない、日本人の望む、日本人らしいリーダーである。このリーダーは、正しいことをしようとしてかなわず、絶望の果てに自から死を選んだ、本当の忠臣の無念を、きっとくみ取るであろう。また、苦しみながら自宅で病と闘い続けている人々には、いのいちばんに手を差しのべるに違いない

1宗社 国家のこと

2  徳川将軍のこと

3堯舜(ぎょうしゅん) 中国古代で徳をもって天下を治めた聖天子堯(陶唐氏)と舜(有虞氏)。転じて、賢明なる天子の称。堯舜のような聖天子。明君。(精選版 日本国語大辞典より)

4羯鼓(諫鼓)苔を生ずる 君主の善政により諫鼓かっこを鳴らす必要がなくて苔(こけ)が生えるほど、世の中がよく治まっているたとえ。小学館 デジタル大辞泉より)

5封建制度 中世社会の基本的な支配形態。封土の給与とその代償としての忠勤奉仕を基礎として成立する、国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度。また、領主が生産者である農民を身分的に支配する社会経済制度。(小学館 デジタル大辞泉より)

6トリクルダウンtrickle-down原義は、したたり落ちるの富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する、という考え方。富裕層や大企業を優遇する政策をとって経済活動を活性化させれば、富が低所得者層に向かって流れ落ち、国民全体の利益になる、とする。レーガンのレーガノミクスや鄧小平の先富論などが典型。これに対して、有効な所得再配分政策を講じなければ、富は必ずしも低所得者層に向かって流れず、富裕層に蓄積し、貧富の格差は拡大する、との批判もある。通貨浸透。(小学館 デジタル大辞泉より)

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世事見聞録. 初編 / 武陽隠士 [著]

出版地不明 : 出版者不明, 文化13年(1816)序

早稲田大学図書館所蔵

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