書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)
著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、
竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他
『 』 部分 本書より引用
没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。その中から、江戸に関わる発言をとりあげてみた。今回はその二回目。
高坂正顕*2の言うように、鎖国の決断は本当に拙速だったのだろうか。すぐに鎖国しないで少し様子を見ていたら、やがて状況が変わって、その後の展開は大きく変わったのだろうか。
状況はそれほど単純ではなかったと竹山道雄*3は言う。当時、徳川幕府はキリスト教に手を焼いており、その影響は深刻だったからである。
徳川時代の社会規範は儒教(道徳)だった。現世を超越する神や宗教から人々を遠ざけ、この世にだけ目を向けるように仕向けたのである。しかし、それが中国や韓国に先駆けて近代化を成し遂げる大きな要因となったと竹山は言う。
『 (竹山)武家は、現世的な実力で天下を取って、それから仏教の叛乱や、切支丹の叛乱で手を焼いて、宗教というものは悪いものであって、人間を気違いにするものだから、宗教を押えつけてしまわなくてはならないというので、キリスト教をすっかり掃滅してしまい、仏教を骨抜きにして、仏教はただキリスト教に対する対抗手段としてのみ意味を認めた。そして宗教の代わりに儒教―つまり道徳を盛んにして、儒教をもって人心を統べるイデオロギーにしたので、そのときから日本人の支配的な層の心は、絶対的な超越的な神様とか宗教とかいうものから離れてしまって、只今この世に向かうようになった。このことが、日本人が近代化を容易にするができた一番の中心になったでしょう。』
徳川時代の武家や庶民は驚くほど合理的であった。しかしながら、宗教を完全に根絶することは不可能なことであった。ひとたび政治や経済が不安定になり、民衆の間に不満や不安が蔓延すると、救済への願いを埋め合わせるために、人々は新たに「絶対性」求めたのである。それは、いわば代用宗教のようなものであった。
『(竹山)しかし人間だからやはり宗教心といったようなもの、宗教的な要求は非常に持っていて、救済への願いとか、現世の不満、不安といったような気持は随分あります。所がそういう宗教的な部分を扱ってくれそうなものには、すぐ絶対性をなすりつけてしまう。つまり代用宗教を見つけるのです。(中略)今の日本人が、何かというとすぐ絶対化してしまうというのは、これは宗教の受持つ部分を、そっちへ肩代わりしているからじゃないかと思います。』
宗教を排したことによって育まれた、江戸人の合理主義的思考は、アジアに先がけて日本の近代化をもたらした。しかし、その一方で、ひとたび政情不安が顕著になると、救済を願う気持ちが、江戸人の心の底に潜んでいた宗教心を呼び覚まし、ぽっかり開いた心の隙間を埋め合わせるために、新たな「絶対性」を見出そうした。
竹山の指摘するような状況は、あらゆる分野で制度疲労が顕在化しつつあった、幕末の江戸の現実だったのではないかと思う。地震や疫病、飢饉などの天災あるいは人的な不正によって、生きるか死ぬかの極限状況に追い込まれたとき、神や宗教に頼らないで、己のみを信じて苦難を乗り越え生き抜く強さを、どれだけの人間が持ち合わせていたのだろうか。
江戸に貨幣経済が浸透すると、世の中がお金中心に回り始め、貧富の格差が拡大していった。勝ち組と負け組が明確に線引きされ、やがて法による社会秩序の維持もおぼつかなくなっていく。困窮者の中には、法を犯して生きていくか、正直を貫いて自滅していくか、究極の選択を迫られる者も少なくなかった。社会不安は増大し、遠隔地では百姓一揆*4、都市部では打毀し(うちこわし)*5が頻発する。革命への潜在的な希求は、否が応にも増していた。抑圧されていた困窮者の宗教的な渇望が、近代化を後押ししていたということは、十分ありそうなことである。
高坂と和辻そして竹山が投げかけた主題は、今も形を変えて生き続けている。
日本では5%の悪人が実権を握ったら、現在においても90%は便乗するのだろうか。また、社会不安が増大したら、私たちはまた、新たな「絶対性」を見出して心の空隙を埋めようとするのだろうか。そして現在の日本はどうなのか。
答えは簡単には出ないし、出してはいけない。それは世界のどこにも存在していない。我々自身で創造しなければならないのである。
了
*1和辻哲郎[1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)
*2高坂正顕[1900-1969]昭和時代の哲学者。明治33年1月23日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41年,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44年12月9日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)
*3竹山道雄[1903~1984]評論家・ドイツ文学者。大阪の生まれ。小説「ビルマの竪琴」、評論「昭和の精神史」など(小学館/デジタル大辞泉より)
*4百姓一揆 江戸時代、農民が領主・代官の悪政や過重な年貢に対して集団で反抗した運動。暴動・強訴(ごうそ)・越訴(おっそ)・逃散(ちょうさん)・打ち毀(こわ)しなど種々の形をとった(小学館デジタル大辞泉より)
*5打毀し(うちこわし)江戸時代に,おもに都市においてみられた暴動。百姓一揆との違いは,第1に暴動の主体勢力が都市下層民であったこと,第2に原因が米価高騰にあったことである。打毀の対象となったのは,米屋,酒屋,質屋,問屋などの富裕商人たちで,彼らが意識的に米価の吊上げをはかったことから,その影響をいちばんこうむりやすい都市下層民たちにねらわれることとなった。大規模な打毀の例としては享保 18年 (1733) の江戸におけるものがある。これ以後打毀は激しさを増し,天明年間 (81~89) における飢饉に際しては,江戸だけでなく大坂,京都,広島,長崎,石巻など全国に及ぶほどであった。幕末期における打毀は幕府崩壊を早めることになった(ブリタニカ国際大百科事典より)
『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分
『幕末江戸市中騒動記』 東京国立博物館蔵/部分
慶応2年(1866)江戸でおこった打ちこわしを描いた絵。
米屋を襲い、家屋を破壊、商品を台無しにする場面。