第十五回 「五%の正しい士(さむらい)を見わけて、それに時を得させると、九十%がそっち について行く」

書名 「和辻哲郎座談」(2020年 中央公論社)

著者 柳田國男、幸田露伴、高坂正顕、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎、寺田寅彦、内田百閒、

竹山道雄、安倍能成、今井登志喜、長谷川如是閑 他

                                       『 』部分 本書より引用

 没後60年を記念して昨年刊行された、和辻哲郎*1の座談集である。そうそうたるメンバーに圧倒される。博識多才の碩学が、幅広い主題について座談を繰り広げるのだからおもしろくならないわけがない。今回は、その中から、江戸に関わる発言を、2回に分けてとりあげてみよう。

 まずは鎖国についての和辻と、哲学者の高坂正顕*2とのやりとりに注目してみたい。

和辻は、鎖国時代に育まれた日本の良さには普遍性が乏しかったと言う。そのため今の日本人(座談会当時の1950年)は、日本の良さから離ようとしているのだが、目の肥えた西洋人から、逆に日本の良さを指摘されて、一種のジレンマに陥っていると言う。また、仮に日本人がその良さに目覚めたとしても、それを保存するのに精一杯で、どうして伸ばしてよいのかわからないのだとも言う。

『(和辻)日本の良さはそういう鎖国の時代にできたものが多いので、あまりに特殊で、普遍性が乏しい。だから今の日本人はできるだけそれから離れようとしている。西洋人で眼の見える人だと、こういう良いものがあるじゃないか、といいますが、丁度その「良いもの」を今捨てつつあるのですね。捨てる必要もあるのかも知れないが、一種のジレンマですね。この三百年間に、大事に、育てあげたので、良いには違いないが、将来伸ばして行く道がない。(中略)

藝術だってそうじゃありませんか。お能にしても、歌舞伎芝居にしても、ただ保存するのほかに手がない。』

 すぐに鎖国を決断しないで、少し様子を見てから決断していたら、その後の展開はかなり違っていたはずだと高坂は言う。すぐに結論を求めるところに日本人の問題があるのではないか。世界のどこかにすでに結論があり、早くそれを見出そうとするから結論を急いでしまうのではないか。だが、本当は、結論はまだ出ていなくて、世界中の人がそれを求めて模索しているのではないか。日本人は結論がどこかにあると思っているが、それは間違いで、本当は自分たちで創造しなくてはいけないのではないか、と高坂は言う。

 しかし、それはたやすいことではないし、時間がかかることである。

『 (高坂)すぐ結論を求めすぎるということです。よく、こう思うんですよ。いろんな人たちと話すと、どうもその人達の話では世界のどっかに、結論なり、解決なりはちゃんとできているのですね。ただ日本だけが一向に結論を知らないし、またそれを実行に移さない。そのために我々は困りきっているのだ、と。(中略)どっかに解決があって、それを我々が知らないから、というのではなくて、新しい解決が創造されなくちゃならない。我々ももっと忍耐強く、われわれ自身で、我々自身の解決を見出してくるべきではないか。』

 この考えに和辻も同意する。そして、結論というものはけっして簡単に得られるものではなく、長い間苦難に耐え、それを乗り越えた後に初めて手にすることができるものであることを、西洋人は、旧約聖書を通して学んでいるのだと言う。

『(和辻)そういう仕方をヨーロッパ人に深く教え込んでいるのが、旧約の預言者の文でしてね。(中略)あれは勝利の歴史じゃない。苦難の歴史です。』

 しかし、日本においても、徳川家康のような苦労人は、苦難の歴史から学ぶことを知っていたと和辻は言う。ここで和辻が例とするのが、家康が家臣に読むように推奨した、武田氏*3「甲陽軍鑑」*4である。「甲陽軍鑑」は武田氏が滅亡した後、家康が養っていた武田氏の遺臣が著したもので、高坂弾正という武田氏の老臣が、武田勝頼*5に仕えた二人の武士に、統治の心構えや理想について説いた軍学書である。

『(和辻)日本でも苦労人の家康は甲陽軍艦というような潰れた家の記録を流行らせています。(略)例えば、便乗派は日本では昔から九十%はある、というような記事もあります。九十は便乗派だが、後は五%が悪人、五%がしっかりした人物なのです。それを見わけるのが上に立っているものの第一の任務だ、というのです。うっかりして五%の悪人に時を得させると、九十%がそっちについちゃう。骨っぽい正義の士が五%いても何にもならない。だから五%の正しい士を見わけて、それに時を得させると、九十%がそっちについて行く。

(高坂)政治の真髄を掴んでますね。流石に。』

 日本には昔から、悪人としっかりした人物が五ずついて、残りの九十%は便乗派である。だから、五%の悪人が実権を握ってしまうと、九十%がそれに便乗して国がおかしくなってしまう。したがって五%のしっかりした立派な人物が実権を握るように、上に立つものは見分けるべきであり、それが一番大切な任務である。幕臣たちにこの教えが浸透していたとしたら、徳川時代が二百六十年間続いたのも不思議ではない。 

                                                                            つづく

1和辻哲郎1889年~1960年]哲学者・倫理学者・文化史家。兵庫の生まれ。京大・東大教授。倫理学の体系化と文化史研究に貢献した。文化勲章受章。著「ニイチェ研究」「古寺巡礼」「風土」「鎖国」「日本倫理思想史」など(小学館/デジタル大辞泉より)

2高坂正顕19001969]昭和時代の哲学者。明治33123日生まれ。高坂正尭の父。西田幾多郎にまなび,昭和15年京都帝大教授。戦争擁護の論陣をはり,21年公職追放となる。解除後,関西学院大,京大の教授をへて36年東京学芸大学長。41,中教審特別委員会主査として「期待される人間像」をまとめた。昭和44129日死去。69歳。鳥取県出身。京都帝大卒。著作に「カント」など(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)

3武田氏 清和源氏。祖は新羅(しんら)三郎義光の子義清で,常陸(ひたち)国武田郷に住し武田氏と称し,のち甲斐(かい)国へ配流(はいる)されたという。鎌倉時代は甲斐の守護。南北朝時代その支流は若狭(わかさ)や安芸(あき)の守護。甲斐の本宗は室町時代振るわず戦国末期に信玄が出て中部地方一帯に版図を拡大。子の勝頼が1582年織田信長に敗れ滅亡(株式会社平凡社/百科事典マイペディアより)。

4甲陽軍鑑 江戸初期の軍学書。20巻。武田信玄の臣、高坂昌信の著述というが、小幡景憲(おばたかげのり)編纂説が有力。信玄を中心とし、甲州武士の事績・心構え・理想を述べたもの(小学館/デジタル大辞泉より)

5武田勝頼1546?82]戦国時代の武将 信玄の第4子。上杉景勝とくみ,織田信長としばしば戦い,長篠の戦い(1575)に大敗。1582年,織田・徳川連合軍に甲斐に侵入され,天目山で自刃し,ここに武田家は滅んだ(旺文社日本史事典 三訂版より)

甲陽軍艦 .JPG

甲陽軍鑑

35寛文・延宝年間(1661-81写 35冊 29.0×22.0㎝ 極彩色絵入り写本。
上質の斐紙に金泥や泥絵具で緻密な挿絵が描かれる。甲陽軍鑑は武田信玄(1521-73)、勝頼(1546-82)二代のいくさを扱った軍記。軍師山本勘介が登場し、甲州流軍学書として知られる。文中や奥書には高坂弾正(こうさかだんじょう/昌信。?-1578)が記した旨が書かれているが、著者は未詳。写真は巻第17永禄元年(1558)信州川中嶋で千曲川を中に信玄と上杉謙信が対面する場面。馬上が信玄、床机に腰掛ける人物が謙信。-国立国会図書館デジタルコレクション-

江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。

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このページは、青山富有柿が2021年5月30日 15:48に書いたブログ記事です。

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