書書名「江戸っ子と江戸文化」(小学館創造選書 1982年)
編者 西山松之助
『 』部分 本書より引用
江戸は城下町である。
他の城下町と違うのは、二百を超える地方藩の大名屋敷が存在するところである。そこにいたのは参勤交代で数年の間しか江戸に滞在しない地方武士たちである。一大消費都市であった江戸には上方商人たちも移住し支店を開業した。大名屋敷も支店も、男性ばかりで女性はほとんどいなかった。文久二年(1862)に参勤交代がなくなるまで、そうゆう状態が続いたのである。
地方武士も上方商人もついに江戸化しなかったので、やがて徳川家といっしょに三河から上京した武士や町人たちとの間に違いが生じるようになった。
徳川家とともに江戸に来て、住み着いた町人たちは、やがて江戸っ子と呼ばれるようになる。古文書の中に、江戸っ子という言葉が一番初めに見つかるのは明和八年(1771)のことである。彼らの多くは下町に住んだ。下町のほとんどが埋立地で、面積は全体の15%ほどしかなかった。この狭いエリアに、総人口の約半分に相当する、およそ50万人の町人が住んでいた*1
『(西山)明治二年の統計でも、町人のいる土地は全体の15パーセント、お寺が15パーセント、あとの70パーセントが全部武家屋敷ですからね。~中略~結局、江戸は15パーセントの土地に、人口の半分以上が住んでた。50万以上ですね。だから町家は軒をつらねて、ぎっちり詰まって暮らしていた。』
人が集まれば活気が出る。経済も活性化する。下町エリアには各界の才人たちが集まってきた。時とともに下町は、経済と文化の中心地となり、18世紀後半には、山の手を凌駕するまでになった。
武士や学者、浮世絵師、お茶やお花の宗匠から噺家まで、ありとあらゆる職種の人々が下町にいた。幕府の役人だった太田蜀山人のように町人になって住み着くものも現れた。そこには当時の文化人が集中していたのである。
『(西山)文化の質の高さで下町に憧れて、下町というようになるのは、十八世紀後半のどうも明和(1764~72年)、つまり田沼時代からでしょう。その頃になると、杉田玄白とか平賀源内だとか、あんな連中が下町にずうっといまして、大槻磐水(玄沢)の蘭学塾も、これは京橋にありました。のちに少し移転しますけれども、そうゆうつまり蘭学とか漢学とか、国学、それに生花とかお茶の宗匠、出版から、いろんな美術工芸の生産センターでもある。そういう文化が全部下町、つまり日本橋、銀座、芝のあたりにかけて集中していました。』
知識も情報もお金もそして遊びも、すべて下町に集まっていた。海外の情勢すらいち早く把握していた。才能が集まればそれを求めてまた才能が集まる。見いだされた才能は豊かな資本と技術力によって支えられ、やがて大きく開花していった。下町はクリエイティビティに満ちた江戸の文化創造センターだったのである。生み出された傑作は庶民を楽しませ、時を経て芸術へと昇華していった。浮世絵師に戯作者、役者や噺家が、そして学者たちが、日々知恵とアイデアとセンスを競い合う活気に満ちたエリア、それが下町であった。このようなエリアは、当時、世界のどこにもなかったのではないかと西山は言う。
『(西山)江戸のお金持ちというのは大名家ではなくなり商人が金持ちになり、世界の情勢なんかも商人がいちばん早くキャッチする。蘭学だって全部下町で興りますからね。そうなってくると、そういう新知識と、いろんな遊びとかそういうことも、全部下町というものがセンターになる。~中略~ この下町には、各地からやってきた幾多の俊才が流れ込んだ。平賀源内も、林子平も。蘭学の杉田玄白も、また荻生徂徠、賀茂真淵、太宰春台も。そして彼らの著述を出版するための版木師、刷り師などの職人も全部、神田や日本橋あたりに集中している。だから下町は江戸の文化創造センターだったのだと思います。』
文化をけん引するリーダー人材にはことかかなかった。蔦屋重三郎のような出版プロデューサーと腕の良い職人たちが、浮世絵師や洒落本、黄表紙などのベストセラーを量産し、江戸文化を日本全国に広げた。創造性と美意識、そして豊かな経済力を兼ね備えた出版資本が、それを強力に後押ししていた。出版技術の進歩も大きく貢献した。傑作が生みだすための、あらゆる条件がそろっていた。
『(西山)多いのは草双紙とか黄表紙で、一万五、六千も売れたといいます。いくら刷っても刷るそばから持っていくという有様で...。ちょっと今の人には考えられないでしょう、そんなに売れたってこと。ベストセラーが当時もう出てきているわけですからね。その頃に江戸っ子が出てきたり、江戸文化が展開してくる。~中略~蔦屋重三郎なんてのは、中でも最高のプランナーだったと、ぼくは思いますね。誰になにを描かせるかといったようなことの発想も、ほとんど全部蔦屋重三郎がやっちゃう。これを描け、なんて全部蔦屋のさしがね。出版資本に大きな創造性と美意識と、そしてまた経済的な展開の能力があったということ、それがいちばん大きなものだと思いますよ。』
下町の町人たちにとって、もはや武士など眼中になかった。
江戸時代は合戦のない平和な時代である。武士に活躍の場はなかった。文化の中心は下町であり、担い手は町人たちだった。武士たちがどんなにいばったところで、その野暮なふるまいを笑われるのがおちであった。特に参勤交代でやってきた地方武士は、方言丸出しで、無骨なふるまいをこけにされ、田舎者扱いされたあげく、川柳や洒落本で笑いのたねにされた。
『(西山)「野暮なやの字の屋敷者」というけど、ほんとに江戸っ子が威張れると思うのはいわゆる今の言葉でいう庶民の生活気分なんですね。屋敷者というのはやっぱり野暮なんですね。
~中略~つまり野暮な田舎侍というのは、田舎から来ると下町はすごいという意識が、どうも田沼時代頃からあったようですね。~中略~学問にしても、蘭学者だって金のある連中のほうがいいから町人と親しくなる。
(松島)浮世絵などは、武士を問題にしていませんね。風俗、風景を描くのに役者や遊女や町人などが主題になる。落語にしても、その中にでてくる侍はたいてい笑いの対象にされる。』
江戸っ子は「いき」であった。いきな人とはすなわち、決められた枠(西山はそれを「たが」と呼んだ)からはみ出さないで遊ぶすべを身に着けた者のことをさしていた。そしてそのふるまいの自由さが、決められた枠のすれすれであればあるほど、よりいっそう「いき」であるとされたのである。枠の存在を知らなかったり、知っていても無視して自由そうにふるまうのは野暮とされた。江戸っ子は制約の中の自由に価値を見出していたのである。
『(西山)「いき」の世界には制約があります。もう一歩でくずれるというところでくずれていない。たがが全部はずれたところには自由はないので、たがというものがあってはじめて、自分はどういうふうに生きるかということの自由を楽しむ。
浮世絵にも浮世絵のひとつのたがというものがある。そのたがを、どうたがでなく生きるかというところの自由さが、「いき」を洗いあげたひとつの条件ではないだろうかと思います。
すれすれなんですよ。そういうたがを意識しないのが野暮。たががあることさえも知らないで、いかにも自由そうなふるまいをしているのが野暮なんですよ。』
江戸下町は、才能あふれる人々が知恵とアイデアとセンスを競い合うクリエイティブなエリアであった。それを出版資本や職人技が支えていた。そこでは様々な個性が入り乱れて、刺激に満ちた日々を送っていた。決められた制約の下で、誰もがぎりぎりまで自由活発に活動していた。
江戸下町の文化創造センターとしての遺伝子は、今も生きていると思う。浮世絵を生み、歌舞伎を発展させた江戸下町のスケールやパワーを取り戻して、新しい文化を創造し、世界に発信するクリエイティブな可能性に満ちた都市、これこそが21世紀の江戸・東京の目指すべき都市の姿ではないだろうか。
*1 明治2年(1869)に 行なわれた市街地面積調査によると、御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域のこと)の面積は、武家地38.653km2,寺社地8.799 km2,町人地8.913km2,合計56.365km2。同エリアでは1721年(享保6)に町人人口が50万人を突破、幕末までおよそ50~56万人前後で推移している。人口調査の対象に含まれていなかった武家や寺社の人口を、町人と同じ約50万人と推計すると、江戸の総人口は100~110万人だったと思われる。1801年のロンドンの人口は約86万人、パリは約54万人と推計されており、江戸は世界的な大都市だった。(参考文献:2万分の1「江戸の都市的土地利用図」正井泰夫 1975年)
▲旧江戸朱引内図(東京都公文書館所蔵)
▲文政6年江戸朱引図(『東京百年史』付録)より簡略化して作図
港区のあゆみ デジタル版より.