書名「自歴譜」(岩波文庫1982年)
著者 加太邦憲(かぶとくにのり)
*「 」 部分 本書より引用
明治維新後、新政府の最大の課題は不平等条約の改正であった。
そのためには、近代国家にふさわしい法律を整備し、適切な運用を実現しなければならなかった。西欧の法律知識のある日本人はほとんどいない時代である。専門人材の育成が急務であった。著者の加太邦憲は西欧の法律知識をいち早く修得し、多くの法律専門家を輩出した功労者のひとりである。加太の自伝である本書には、維新前後の日本社会の様子や、新政府で要職についてからの貴重な証言が数多く記されている。ここでは加太本人の履歴に注目し、日本が近代的な法治国家として脱皮していく道筋をたどってみたい。
明治維新の功労者の多くは、人生の初期あるいは前半を江戸時代に過ごしている。
当時、武士は藩校や私塾で、町人は寺子屋で学問の基礎を学んだ。知育と徳育は一体であり、そこで身に着けた学ぶ姿勢や方法、生き方の知恵は、やがて未知の学問であった洋学に挑戦し、それを修得することを可能にした。それは日本が驚異的な速さで欧米に追い付くための原動力となった。明治維新を成し遂げた大きな要因のひとつに江戸時代の教育の力があったことは疑いない。
著者の加太邦憲は嘉永二年(1849)、桑名藩士加太喜内の家に生まれた。安政二年(1856)、7歳になると漢学者の大塚桂から「唐詩選」「三体詩」の手本を与えられて家庭で習字、読書を学ぶようになり、翌年の夏には大塚私塾に通うようになる。安政四年(1858)に9歳で藩校の「立教館」に入門。これより16歳まで、早朝から私塾にて習字と読書をした後で藩校に出席し、午後は引き続き藩校で復習したり、私塾で学んだりする日々を送る。
この間、著者は何を学んでいたのか。
立教館の褒賞制度がその一端を教えてくれる。
「十歳の冬までに四書の素読を終わりたる者には「孔子行状図解」一部、十四歳の冬までに五経の素読終わりたる者には「義経大儀」一部を賞する法にて、即ち予(加太)は十歳に四書、十二歳にして五経を終わりたる故、この賞与には両度とも漏れざりき。」
10歳の冬までに四書を、14歳の冬までに五経を読了したなら藩から賞されたのである。
著者は10歳で四書を、12歳で五経を読了した秀才だった。
学んだのは漢学だけではなかった。
15歳からは武田流の軍事学を学んだ。同じ頃、新陰流の剣術・風伝流の槍術・渡辺流の砲術も学び、剣術と槍術では19歳の時に免許皆伝を与えられている。
将来の藩を背負う人材は文武両道でなければならなかった。
「藩の制、藩士に文武両道を奨励し、楽翁公*1の『文武は車の両輪の如く、文を右にし武を左にし云々』の語ありて、教員といえども学問の一方に偏するを許さず。故に教員二人を一組になし、隔日に登校授業をせしめ、非番日には文武を納めしなり。」
リーダーには知力だけではなく、それを正しく用いる判断力、腐敗堕落に陥らない倫理力、激務に耐えうる精神力と体力が必要と考えられた。そのために教育において知育・徳育・体育がバランスよくなされるよう配慮されていたのである。
十八歳になると、京都所司代を任じられていた桑名藩主・松平定敬*2に仕えるため、京都勤番を命じられる。幕末動乱のときであり、学問や詩歌を学ぶ時間はなく、もっぱら武芸に励む毎日であった。ただし雨の日だけは西洋兵学を学ぶことができた。当時はまだ翻訳書がなかったため、仏語で書かれた原書を読まなければならなかった。そのためフランス語を学ぶことになる。これが著者の洋学との出会いとなった。習得したフランス語は、後に法律学者として、大きな力となった。
著者が本格的に洋学を志すのは維新後である。
明治元年に友人から小沢圭次郎*3が書いた英文の手紙を見せられて、自藩に洋学者がいることを知り、さっそく弟子入りする。しかしながら学び始めてから3か月後、洋学は邪道であり異端であるという声が藩校内にあがり、中断を余儀なくされてしまう。著者の洋学への思いは経ちがたく、かくて東京への遊学を志すことになる。
上京して最初に師事したのは村上英俊*4でフランス学を学んだ。その後開成学校の博士(教授)で、まだ二十五、六歳だった箕作麟祥(みつくりりんしょう)*5に師事した。麟祥は多忙で満足に授業を受けられなかったため、近くの南校*6に通うことが多くなっていった。
やがて藩より大学貢進生*7を命じられ南校舎寮に入ることになった。貢進生は英・仏・独語の何れかに加えて語学以外の専門知識を修得した人材を養成するために、大藩より3名、中藩より2名、小藩より1名ずつの秀才を藩費にて貢じるよう政府が命じたもの。総勢350名を数え、舎監は井上毅*8や平田東助*9らが務めた。他に普通の入舎生と通学生が300~400名おり、学派と、成績による等級でクラス分けして凡そ20名の英・米・仏・独人を雇って教授とした。校長は加藤弘之*10で、教頭はオランダ人の宣教師フルベッキ*11が務めた。著者は5名のフランス人教師につき、普通学(一般教養)を修めた。
ところがこの大学貢進生制度はわずか一年で廃止されてしまう。理由を一言で言うなら各藩から貢じられたのは秀才とは限らなかったからである。怠惰で遊蕩の者も少なくなかった。
制度は廃止になり著者も退寮を余儀なくされた。しかしながらしばらくして、篤学の者を選び試験を経て南校に再入学させることになったため、成績優秀であった著者は寮に戻ることができた。
南校を出てから、司法省初の法律専門学校である明法寮学校*12に入学することになる。箕作麟祥が仏国五法(民法・訴訟法・商法・刑法・治罪法)の翻訳作業の際に、難解な箇所についてフルベッキに質問したところ満足な返答が得られなかったため、司法卿の江藤新平*13の判断でフランスから法律家を招聘して箕作の質問に応えさせ、同時に学生を募って翻訳作業をさせることになった。20名の学生が選抜されることになった。法学で身を立てることを決意した著者も出願し、漢学と仏語の試験を経て合格、純然たる官費生となった。フランスからは代言人(弁護士)法学士ブスケ(27歳)*14が来日して教授となった。
明法寮学校の卒業生は政府の要職につくことが半ば約束されていた。おもしろくないのは司法省の官僚たちである。法律学校の生徒をしきりに中傷し、廃校に追い込もうと画策する。最初は無視していたのだが、廃校運動が盛大になってきたので著者らも黙っていられなくなり、廃校の理由のないことを記して司法卿の江藤新平に提出することになった。日本語と漢学に堪能だったブスケを通訳にして、授業を実地見学した江藤卿は、即興で学生に和文を仏語に翻訳させて教師のリブロースに評価させ、学生の翻訳能力と教師の評価手腕を試した。リブロースの教え方などについても通訳を介して問答したという。
数日して江藤卿から採決が言い渡された。
「評判に反し。学生の成績良好にして将来成功の見込あれば、学校は存続せん」一同が安堵したことは言うまでもない。
明治6年(1873)パリ大学教授ボワソナード博士(48歳)*15を司法省顧問兼教授として招聘することなった。法律の大家であるボワソナードの講義は個性的だった。いつも手ぶらでやってきて、前日の講義でどこまで話したかを学生に尋ねてから、その続きを講じたという。その様子は次のとおりである。
「その蘊蓄(うんちく)する所豊富なるが故に、講じたき簾々(かどかど)脳中に創出し、止まる所を知らざるを以て自ら秩序なく、時には横道に入り,遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く、即ち学士以上の大体法律に通じる者に聴かしむる方法なれば、我々最初は困却したり。」
明治9年(1876)、著者は法学科生徒幹事兼助教に任じられる。当初は一時的に設置された法律専門学校だったが、司法卿の大木喬任(おおきたかとう)*16はさらに100名を入学(入寮)させて拡大、学生は普通学(仏語)4年、法律学4年の計8年間学ぶことになった。法律に関する実務は増加の一途をたどり、外国法律の翻訳や取り調べも増えていた。法律人材の養成は急務だったのである。
洋学の必要性を理解し、積極的に促進した大木卿であったが、その一方で急激な西洋主義への傾斜に危機感を抱いていた。少し長いが引用する。
「政府は一面一般思想が急に西洋主義に傾き、動(やや)もすれば国をも顧みざるものあるに至り、また一面世俗浮薄に流れ行くを憂慮し、もしこのまま放任し置くときは如何なる危険を醸生するやも測られず、よって速やかに国家的(或いは東洋的)精神修養に勉めざるべからずと心付きたれば、大木司法卿は廟堂において『これ素よりかく無かるべからず。よって予はこの点に注意し、司法の学生は漢学素養の者を選み、入校の上始めてこれに洋学を授くることとせり。これ蓋(けだ)し機宜に適するものと信じるが故なり』と述べたりと言う。」
大木卿の先見に内閣の諸卿が感服し、授業を見学したいという声があがり、後日、三条実美太政大臣*17、有栖川左大臣宮*18、山形有朋陸軍卿*19、西郷従道海軍卿*20らが学校を訪れ1時間あまり授業を参観したという。
欧化政策は優れた知識や文化を西欧から学ぶことで日本をよりいっそう発展させたが、古くからのよき日本文化を破壊する可能性も秘めており、いかにしてバランスをとるかは、きわめて重大な問題であった。西洋主義に偏った人材による法の運用はとりわけ大きなリスクであるととらえられた。学ぶべき西洋文化や思想とは何か、日本文化(あるいは東洋文化)の何を残し、何を捨てるべきか。そのバランスの塩梅を考えなかった政治家、軍人、官僚そして学者はいなかったのではないか。日本的な(あるいは東洋的な)精神修養に勉めるべきとする大木卿の提言は、江戸時代に生まれ、藩校で学んできた維新政府の重鎮たちの心にしっかり突き刺さったにちがいない。著者も、大木卿の精神修養に注目したところに大いに共鳴し、卓見であると称賛を惜しまない。
江戸時代は徳育の大切さを知る時代であった。「徳」はそれ自体を教えるというよりも、むしろ学問と一体であり、それは武道においても同様であった。
今日、一部の政治家や官僚による腐敗を目にするにつけ、エリートにこそ徳育が必要であると思わざるをえない。徳を学ばないで育った人材に知識の善用は期待できないからだ。国益に関する重要な判断を迫られたときに、個人や組織の損得が判断基準になるようなことでは困る。
さりとて「徳」を教えるのは難しい。徳については、古来より多くの先哲が吟味を繰り返し、様々な教えが存在している。その中からひとつを選び、あるいは新たな教義を編みだして、これが答えであるとばかりに一方的に教えこめばよいというものではない。それはむしろ育むものである。
ではどうしたら徳を育むことができるだろうか。まずは読書と議論が必要である。武道も役立ちそうだ。江戸時代のひとたちも同じように考えたのかもしれない。
*1楽翁公 松平定信(1758~1829)。楽翁は官職を辞した後の号。寛政の改革を遂行した。桑名の藩校の立教館は、定信が白河に創設した藩校立教館に因んだもの(本書より)。
*2松平定敬 桑名藩主。京都守護職の会津藩主・松平容保は定敬の実兄。
*3小沢圭次郎(1832~1932)桑名藩士。海軍兵学校教官の後、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)教官および校長心得を歴任。造園家、作庭家、教育者、文筆家、近代初の造園研究者(Wikipedia)。*第九回「江戸は日本庭園に満ちた都市であった」の注1も参照
*4村上英俊(1811~1890)洋学者・フランス学者。日本で初めてフランス語を習得したことで知られる。帝国学士会員、1885年にフランス政府よりレジョンドヌール勲章を授与された(Wikipedia)
*5箕作麟祥(1846~97)津山藩侍医箕作阮甫の孫。蘭・英・仏学を修め蕃書調所教授手伝並出役・開成所教授職見習・外国奉行支配翻訳御用頭取などを歴任。1870年には太政官制度局中弁江藤新平の命によりフランス民法の翻訳に着手。以来一貫して民法を中心に法典編纂事業に着手した(本書より)
*6南校 東京大学の前身の一。幕末の開成所を明治初年(1868)開成学校、そして大学南校と改称。洋学教育が行われた。明治10年(1877)東京医学校と合併して東京大学となった(デジタル大辞泉)。
*7大学貢進生 旧米沢藩出身の平田東助と旧飫肥藩出身で明治3年5月8日(1870年6月6日)に大学別当の松平慶永より大学南校の少舎長に任命された小倉処平との建議を受け、明治3年7月27日太政官布告により、当時の各藩は石高に応じ1名から3名の人材を大学南校に貢進することが命じられた。大学南校は、明治政府が洋学を教授するため設置した教育機関であり、開成学校を経て東京大学に発展する教育機関である。(Wikipedia)
*8井上毅(1845~1895)枢密顧問官,文部大臣を歴任 大日本帝国憲法制定にあたっては,H.ロエスレルなど御雇外国人の助言を得つつ,その骨格を起案した。また教育勅語案文の作成をはじめ,重要案件の起草,意見書の提出など,明治中期の重要問題のほとんどに参画した(コトバンク)
*9平田東助(1849~1925)山形の生まれ。山県有朋系の有力官僚として、貴族院議員・法制局長官・枢密顧問官・農商務相・内相などを歴任。特に産業組合法の制定、同組合の育成に尽力した(デジタル大辞泉)
*10加藤弘之(1836~1916)幕臣として,開成所准教授,大目付勘定頭をつとめ、維新後の1877年東京大学綜理,90年帝国大学総長,さらに貴族院議員,枢密顧問官,帝国学士院院長などを歴任。
*11グイド・フルベッキ(1830~1890)オランダ生まれ。アメリカのオランダ改革派教会宣教師。1859年(安政6)来日して長崎で日本語を習得,禁教下秘かに布教して村田若狭に最初の洗礼を授けた。また,長崎の洋学所,その後身の済美館,さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学,政治,科学,兵事などを教え,門下から大隈重信,伊藤博文,横井小楠らの人材が輩出した(平凡社 世界大百科事典)。
*12司法省明法寮学校(1871年-1875年)は、日本の司法省に設置された法律学校。司法省明法寮ともいう。出身者の多くが裁判官・検察官となり、明治時代の司法を支えた。寮はのちに東京大学法学部に統合された。東京大学法学部の前身(goo Wikipedia)
*13江藤新平(1834~1874) 佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。明治維新後、司法卿として司法制度の確立に尽力。のち参議となり、征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが敗れて下野。民撰議院設立建白書に署名。佐賀の乱を起こし、敗れて刑死した(デジタル大辞泉)。
*14ジョルジュ・ブスケ(1846~1937) 司法省が初めて雇用したフランス人法律家。1872年2月より 76年3月まで法律顧問兼法学教師として在職し,諸立法作業,司法省法学校生徒の教育に従事した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。
*15ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(1825~1910) 1852年パリ大学で法学博士号取得,1864年グルノーブル大学,パリ大学の助教授。 1873年日本政府に招聘されて来日。司法省顧問として,刑法 (旧刑法) ,治罪法,民法 (旧民法) を起草 (前2者は 1882年施行,旧民法は法典論争のため施行されなかった) 。司法省法学校,明治法律学校教授を務め,フランスの法律学および自然法思想を講じ,日本の立法事業ならびに法学教育に大きな足跡を残した(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
*16大木喬任(1832~1899)佐賀の生まれ。江藤新平とともに東京遷都を主張、東京府知事に就任。元老院議長・枢密院議長・法相・文相を歴任(デジタル大辞泉)。
*17三条実美(1837~1891)幕末・明治前期の公家・政治家。実万(さねつむ)の四男。急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。文久3年(1863)8月18日の政変で七卿落ちの一人として長州に逃れた。明治維新後は新政府の議定・太政大臣・内大臣などを歴任(デジタル大辞泉)。
*18有栖川宮熾仁親王(1835~1895)幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。兵部卿(ひょうぶきょう)、福岡県知事、元老院議長を務め、1877年の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。 (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))。
*19山形有朋(1832~1922)陸軍大将・元帥。山口の生まれ。松下村塾に学ぶ。法相・内相・首相・枢密院議長を歴任(デジタル大辞泉)。
*20西郷従道(1843~1902)薩摩(さつま)の人。隆盛の弟。はじめ陸軍に属し、台湾出兵を行ったが、のち、海軍大将。海相・内相などを歴任。晩年、元帥となった(デジタル大辞泉)。
▲寺子屋の筆子と先生。
文学万代の宝(始の巻・末の巻) 一寸子花画
(いっすんし はなさと)画弘化年間(1844~1848)頃
幕末に日本を訪れた多くの外国人は、日本人の識字率(しきじりつ)の高さ、
特に女性や子供の読み書き能力に驚きの声を挙げています。江戸時代の日本は、
世界最高の教育水準を誇る教育先進国でした。
東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用
▲寺子屋の教科書 文政2年(1819)刊
①庭訓往来寺子宝(ていきんおうらいてらこだから)
②塵劫記九九水(じんこうきくくのみず)
③小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)
寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本です。
その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての
必要な知識を学ぶためのものを使います。寺子屋等で使われた教科書を総称して「往来物」と言います。
「稚六芸」とは君子が持っている6種の教養「六芸」になぞらえ、
子供たちの学習に必要な6つの教科をあげたもので、
書は手習いを、数はそろばんを指しています。
六芸とは、古代中国において士分以上の人に必要とされた教養のことで、
礼(道徳教育)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬車を操る技術)、書(文学)、数(算数)の6種を指します。
東京都立中央図書館 デジタルミュージアムより引用