2020年11月アーカイブ

第十一回「孫が語る第15代将軍徳川慶喜」

書名「徳川おてんば姫」(2018年東京キララ社)

著者 井手久美子

 著者は徳川第15代将軍徳川慶喜(慶喜公)の孫である

 本書には最後の徳川将軍の孫として育てられた著者の個人的な思い出がつづられている。しかし読者は読み進むにつれて、それだけではないことに気づく。そこには当事者にしか知りえない、興味深い歴史的事実が、ところどころちりばめられているからである。

 著者は1922年(大正11)、当時の東京都小石川区(現在の文京区春日二丁目)にあった徳川屋敷に生まれた。地名の小日向第六天町にちなんで「第六天」と呼ばれた。慶喜公が晩年を過ごしたので「徳川慶喜終焉の地」として知られている。徳川屋敷は第二次大戦後に財産税として物納され、その後跡地には財務省の官舎が建てられたりしたが、現在は国際仏教学大学院大学の敷地になっている。

 慶喜公が徳川屋敷にたどり着くまでには紆余曲折があった。

大政奉還後、慶喜公は木綿服、小倉袴に小刀一本の身一つで江戸城を追われた。

最初に赴いた上野・寛永寺に二ヵ月滞在したあと水戸に移り、そこで三ヵ月ほど過ごした。その後静岡に移り住み、以後30年近くの間当地に隠棲した。しかし最後は徳川に縁の深い江戸で暮らしたいと考え、徳川屋敷に移ったのだと著者は言う

 江戸に帰還した翌年の明治3563日、慶喜公は明治天皇から公爵を授爵した。

徳川慶喜家ではこの日をご授爵記念日とし、以来毎年「ご授爵の宴」が催されたという。上野精養軒の料理で、招かれた慶喜公ゆかりの人々がもてなされた。

「公爵」は爵位の第一位で、皇族や旧摂関家などの公家、武家(徳川宗家のみ)のほかに、国に偉勲のあった限られた「家」に与えられるたいへん名誉な爵位であった。

明治維新の勲功が認められた慶喜公は、このときすでに公爵に叙せられていた徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を立てることも許された。

明治政府は慶喜公を優遇し、維新の功労者としてその勲功を称えたのである。

この日をもって慶喜公の朝敵の汚名は返上された。

 爵を授爵して11年、大正二年11月に慶喜公は七十七歳で亡くなった。

江戸の人びとは慶喜公を忘れてはいなかった。

葬儀の日、沿道は集まった人々で埋まり、江戸町火消が一番から十番まで総出でお供をしたという。その葬儀は神式であった。「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すために、仏式ではなく神式で葬儀を行うようにと、慶喜公が遺言を残していたからである。

 なぜ明治天皇は長く朝敵とされていた慶喜公を維新の功労者として称えたのかについては本書で触れられていない。そこには何らかの状況の変化があったのであろう。あるいは、最初から朝敵でないことはわかっていたけれど、時代がそれを認めることを許さず、30有余年を経てようやくその機会を得たということではなかったか。

そう思うと、日本が大きく方向転換した明治維新には、知られていない功労者がまだまだいるのではないかと思えてくる。

 

 明治維新に限らず、誰に知られることもなく歴史の中に埋もれてしまった功労者はたくさんいるに違いない。いくら年月が経とうとも、私たちは、事実を掘り起こし、正しく評価し、必要があれば顕彰し続けなければならない。

歴史に終わりはないのである。

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▲徳川慶喜公お墓

東京都指定史跡

徳川慶喜墓(とくがわよしのぶ はか)

所在地 台東区谷中七二寛永寺墓地内

指定   昭和四四年三月二七日

徳川慶喜(一八三七~一九一三)は、水?藩主 徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継 いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(一八六六)第一五代将軍職を継ぎまし たが、翌年、大政を奉還し慶応四年(一八六八)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江?城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江?幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三一 年(一八九八)には大政奉還以来三〇年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三五年(一九〇二) には公爵を受爵 徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」 の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(一九一三)一一月二二日に七七歳 で没しました。 お墓は、間口三・六m奥行き四・九mの切石土留を囲らした土壇の中央奧に径一・七m高さ0・ 七二mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。 平成二二年三月 建設 東京都教育委員会

2020-11-上野寛永寺 根本中堂.jpg

寛永寺本堂

旧本堂(根本中堂) は現在の東京国立博物館前の噴水池 あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で 焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造 といわれる。

間口・奥行ともに七間(十七・四メートル)前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝(こうはい)がある。周囲に は勾欄付廻縁(こうらんつきまわりえん)をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸 (さんから/正面中央など)蔀戸(しとみと/正面左右など)板壁など、すべて素木の まである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重?(たるき)とし、細部の様式は和様を主とする。

 内部は、内陣が土間で、外陣(げじん)と同じ高さの須弥壇(しゅみだん)が設け られている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。 内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のも のである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。 平成十六年三月台東区教育委員会


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「慶喜公蟄居葵の間」

根本中堂の裏側「慶喜公蟄居の間」が残されている建物外観写真。

慶喜公は1868年2月12日より4月11日まで2ケ月の間蟄居生活を送った。

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