第十回「ドイツ人が立案した東京の都市改造プラン」

書名「江戸・東京の中のドイツ」(2003年講談社学術文庫)
著者 ヨーゼフ・クライナー

本書は、江戸・東京にドイツ人*1しるした足跡を、現在も残るゆかりの地を始点にたどり、当時すでにすぐれて国際的であった首都・東京の姿を浮き彫りにしている。紹介されているエピソードは何れも秀逸で、いまさらながらヨーロッパと日本との縁の深さを感じないわけにはいかない。

著者のヨーゼフ・クライナー*2は執筆当時ボン大学教授であり同大学の日本文化研究所長である。本書は「ケンペルやシーボルトなどのヨーロッパにおける日本研究の先学の業績をフォローする作業の中で問題関心として明確化してきたヨーロッパと日本の比較文明論」の系譜につらなる日本研究の書である。内容は多岐に渡り、著者の関心の幅は広い。すべてのエピソードを紹介したいところだが、そこは本書を直接手に取ってもらうことを読者に期待して、今回は帝都・東京の改造プランを立案したドイツ人の物語を紹介しよう。

明治新政府は首都・東京をどのような都市にしたかったのだろうか。
そのヒントは新政府の欧化政策にある。
 新政府の最大の課題は列強と結ばれた不平等条約の改正だった。そのためには軍事、経済の近代化が必要だったが、それだけでは足りなかった。内務卿の伊藤博文と外務卿の井上馨が考えたのは帝都改造、すなわち首都東京の思い切った西欧化*3であった。そうすることで視覚的に近代化をアピールできると考えたのである用地は旧大名江戸屋敷の広大な跡地があった。すでに大規模な都市改造計画が達成されたパリ、ベルリン、ウイーンといったヨーロッパの大都市の手本もあった。都市改造のための条件は整っていた。

しかしすべてが順風満帆というわけにはいかなかった。日本における都市設計には大きな足かせがあった。日本では古来、四神相応*4に立脚した道教陰陽道*5の地相学に基づいて都市設計をしなければならなかった。
それは簡単に言えば次のようなことである。すなわち、万物の根源力とされる「気」が大海に流れ出てしまう前に、統治者の所在する地点に集中しなければならないとされ、そのためには、北面すなわち都市の背後には高い山があり、前方となる南面には沢畔がなくてはならなかったのである。これを東京に当てはめると次のようになる。すなわち「四神相応の思想によれば政府官庁用地は現在の皇居(当時の皇城)の東南面の南でなくてはならず、東は築地本願寺*6、西は日枝神社*7に囲まれた、日比谷、虎ノ門、霞が関を中心とする一帯以外には考えられなかった」のである。
1880年当時、この地帯には日比谷練兵場(現在の日比谷公園)、薩摩藩島津家、長州藩毛利家、佐賀藩鍋島家などの旧大名江戸屋敷があった。1883年(明治13)、手始めとしてイギリスの建築家ジョサイア・コンドル*8の設計による鹿鳴館(跡地は旧大和生命本社、現在は日比谷U-1ビル)が建設された。その数年後には帝国ホテルも建てられた。

井上馨はここに西欧式の政府官庁集中計画のマスタープランを求め、最終的に委託されたのがベルリンのエンデ=ベックマン建築事務所*9だった。

エンデ=ベックマンの第一プランはパリ、ベルリンの都市改造がモデルとされた。第一プランでは各官庁の建物は間隔をおいて配置され、間には公園や緑地帯が数多く設けられていた。日比谷には博覧会場として大空間がとられ、会場を二分するように「日本大通り」が走っていた。火災が多かったため、防火ゾーンとしての機能も与えられていた。
この日本大通りの東端からは「天皇大通り」と「皇后大通り」が放射状に斜めにのび、その内側の三角形に今日の有楽町駅付近に中央駅が配置された。
 日本大通りの西端からは「国会大通り」が国会議事堂(現在と同じ場所)に向けて上っていた。議事堂の左右には首相官邸と司法省が配され、ここから東の浜離宮まで「ヨーロッパ大通り」が下っていた。ベックマンプランの最重要建築は司法省(現在の法務省)である。司法省庁舎が西欧風の近代建築であれば、それは日本の司法が十分機能している証拠とみなされるであろうと考えたのである。皇居も大きく改造された。驚くべきことにその意匠は、ドイツ・ドレスデンのツインガ―宮殿*10を想起させるネオ・バロック様式であった。

 第一プランが実現していたら、東京の風景は一変していただろう。想定どおり条約改正交渉に好影響を与えていたなら、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれない。それくらい大胆な改造計画だった。しかしながら、その後日本の政局が一変すると状況は大きく変わった。条約改正交渉に失敗した外務大臣井上馨は失脚し、都市改造計画も頓挫してしまう。同じころ極端な欧化政策の反動で日本固有の伝統に回帰すべきだという運動が各方面に広まりはじめていた。
 エンデ=ベックマン事務所の考え方も和洋折衷様式に傾きつつあった。ベックマンは滞在時に精力的に日本の伝統建築を見て回っていた。日本の伝統美術工芸が自らに与えた影響は皆無であるいう立場を堅持しつつも、キヨソネ*11フェノロサ*12ビゲロ13らの日本美術賛辞には毅然とした反論ができなかったと、ベックマンは後年吐露している。ヨーロッパにも建築の東方様式が浸透しつつあった。

 やがて提出されたベックマンの第二プランでは、第一プランは容赦なく切り刻まれ、官庁建設予定地も日比谷に限定されていた。
だが結果としてこの第二プランもほとんどが却下された。実現したのは、今も残っている旧司法省本館(現法務省旧本館)14のみである。旧司法省本館は建築家・河合浩蔵*15が工事監理を担当し、1895年に日比谷練兵場(現在の日比谷公園)の西側、米沢藩上杉家*16江戸上屋敷跡地である千代田区霞が関1-1に竣工した(本書には、江戸中期の南町奉行、大岡越前守忠相*17上屋敷跡地と記されているが、そこには現在弁護士会館が建っている)。
その後、東京の西欧化がますます進んだことは言うまでもない。それは官庁エリアにとどまらなかった。特に第二次大戦後の都市の西欧化(欧米化)はめざましい。改造は都市計画にとどまらず、そこに住む人々の生活や文化にまで及んだ。私たちの生活の中に、西欧化はもはや当たり前のように組み込まれてしまっている。
その代償として、私たちは江戸時代まで残っていた美しい風景を失った。良くも悪くも生活習慣や文化も大きく変容した。フェノロサらが絶賛し、ベックマンも否定することができなかった日本独自の美しさも私たちは失ってしまった(もちろんすべてではないが)。
 井上馨は不平等条約の改正のために東京の都市改造が必要と考えた。
しかし本来の都市設計とは、そこに暮らす人々の生活や文化に根差してなされるべきである。すべてを取り戻すことはできないかもしれないが、失われた「日本の伝統美」を復活させるために、もう一度首都設計を考えるときにきているのではないだろうか。
もちろん、すっかり西欧化した東京に配慮して、その意匠は和洋折衷様式である。

*法務省HP法務省旧本館(赤れんが棟)フォトギャラリー」http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho06_00222.html

*1ドイツ人 1815年のドイツ連邦成立までドイツは神聖ローマ帝国の一部だった。その後1867年の北ドイツ連邦、1871年のドイツ帝国、第二次世界大戦後の東西分裂を経て、1990年に現在のドイツ連邦共和国が成立した。本書では「オランダ人、オーストリア人を含んだ中欧人」をドイツ人としている(あとがきより)。

*2 ヨーゼフ・クライナー (Josef Kreiner, 1940年3月15日 - )は、オーストリアの学者。ボン大学名誉教授。専攻は民族学・日本文化研究・沖縄研究(Wikipediaより)。

*3 西欧化(欧化政策)外務卿(後の外務大臣)井上馨を中心として、安政五カ国条約など欧米列強と締結していた不平等条約の改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化をヨーロッパ風にすることで彼らが国際法の適用対象として見なす文明国の一員であることを認めさせようとしたのである。その代表的な存在が1883年に完成した鹿鳴館であった。井上自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政 日比谷にプロシア風の大規模な官庁街を建設する構想が打ち立てられている(官庁集中計画)。また、文化面でも「改良」運動が官民ぐるみで盛んになり、1883年に矢田部良吉・外山正一による「羅馬字会」や同じく渋沢栄一・森有礼による「演劇改良会」が結成され、また欧米を真似て学会を創設する動きも盛んになった。山田美妙らによる言文一致運動もこの時期に発生している(Wikipediaより抜粋)。 

*4 四神相応(しじんそうおう) 東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっている(Wikipediaより抜粋)。

*5 道教陰陽道 日本の陰陽道は、陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇(呪術的な足づかい、歩き方)などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼、さらに土地の吉凶に関する風水説や、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた(Wikipediaより抜粋)

*6 築地本願寺 東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院である。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像(Wikipediaより抜粋)。

*7 日枝神社 東京都千代田区永田町二丁目にある神社。江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る(Wikipediaより抜粋)。

*8 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) は、イギリスの建築家。工部大学校(現・東京大学工学部)の建築学教授として来日し、傍ら明治政府関連の建物の設計を手がけた。辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化の知識も深かった(Wikipediaより抜粋)。

*9 エンデ=ベックマン建築事務所 ヘルマン・グスタフ・ルイ・エンデ(Hermann Gustav Louis Ende、1829年3月4日 - 1907年8月10日)。ヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Bockmann、1832年1月29日 - 1902年10月22日)。いづれもドイツの建築家。               

*10 ツインガ―宮殿 ドイツ、ザクセン州の州都ドレスデンにあるバロック様式の宮殿で、中庭に庭園を有する。現在は、ドレスデン美術館の重要な構成要素であるアルテ・マイスター絵画館等として利用されている (Wikipediaより抜粋)。

*11 エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone , 1833年1月21日 - 1898年4月11日)はイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった(Wikipediaより抜粋)。明治天皇や西郷隆盛の肖像画で知られている。

*12 アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)は、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる(Wikipediaより抜粋)。

*13 ウィリアム・スタージス・ビゲロー(William Sturgis Bigelow、1850年4月4日-1926年10月6日)は、アメリカ合衆国の医師で日本美術の研究家、仏教研究者。ボストン市出身(Wikipediaより抜粋)。 

*14 旧司法省本館 東京都千代田区霞が関にある歴史的建造物(重要文化財)である。中央合同庁舎第6号館赤れんが棟(ちゅうおうごうどうちょうしゃだいろくごうかんあかれんがとう)ともいう。旧司法省庁舎として1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の歴史主義建築である。1923年の関東大震災では煉瓦外壁が鉄材補強されていたことでほぼ無傷で乗り切ったものの、1945年の空襲により内装の大部分と屋根を焼失した。1950年に法務府庁舎(1952年からは法務省本館)として再利用されることになるが、それにあたっての改修工事では屋根材(雄勝石のスレートから瓦)等に変更が加えられた。しかし1994年の改修工事では文化財としての観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び法務図書館として利用されるようになった。同年12月27日には国の重要文化財に内装を除いて指定されている。この敷地は江戸時代に米沢藩上杉家藩邸(上屋敷)として使われており、その記念碑も建立されている(Wikipediaより抜粋)。

*15 河合浩蔵(かわい こうぞう、安政3年1月24日(1856年2月29日)- 1934年(昭和9)10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省 建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている(Wikipediaより抜粋)。

*16 米沢藩上杉家 上田長尾家出身の長尾顕景は、同じく長尾家出身の上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。謙信死後、御館の乱を制し、上杉氏の惣領となり、豊臣秀吉に仕え、陸奥会津120万石(会津藩)を領した。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成ら西軍に付いて敗北。しかし、戦後に家康から罪を許されて出羽米沢(米沢藩)30万石減封となり、1664年(寛文4)に継嗣問題でさらに15万石(屋代・漆山・岩船に預かり地が7万石あり)に減封されたが、家格は国主とされた。減封されたにもかかわらず家臣を減らさなかったため、財政難に陥り、一時は領地を返上することまで検討されたが、第9代藩主上杉治憲(鷹山)による改革などによって藩政を建て直し、明治に至り伯爵(Wikipediaより抜粋)。

*17 大岡越前守忠相 江戸時代中期の幕臣・大名。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてのイメージを通じて、現代では大岡越前守として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相(Wikipediaより抜粋)。

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鹿鳴館
掲載資料 東京景色写真版
刊行年 明治26(1893)
国立国会図書館デジタルコレクション








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日比谷公園音楽堂
最新東京名所写真帖
出版年月日 明42.3
国立国会図書館デジタルコレクション





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旧法務省本館
掲載資料 東京風景
刊行年明治44(1911)
国立国会図書館デジタルコレクション

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このページは、青山富有柿が2020年7月11日 03:04に書いたブログ記事です。

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