2020年2月アーカイブ

書名 「江戸の英吉利熱~ロンドン橋とロンドン時計」(2006年 講談社選書メチエ)
著者 タイモン・スクリーチ

 日本を訪れた最初のイギリス人は、ウィリアム・アダムス*1(三浦按針 みうらあんじん)である。今から40年前の1980年に話題になったアメリカのテレビシリーズ『将軍 SHOGUN』(しょうぐん 原題:Sh?gun)を記憶している方もいるだろう。その主役がウィ
リアム・アダムスで、英国人俳優のリチャード・チェンバレンが演じていた。
 ウィリアム・アダムスはイギリス東インド会社本社に日本との貿易を進言する手紙を送っている。東インド会社は進言を受けて、ジョン・セーリス船長の率いるクローブ号を平戸に送った。こうして日本との貿易が始まる。イギリスから日本への輸出品は毛織物と鉛、そして火薬が中心だった。
 
 残念ながらこの貿易はうまくいかなかった。そのためイギリス国家は平戸を引き上げ、状況を整理してから再度日本に進出することを計画する。一時的撤退である。将軍秀忠から御朱印状をもらい、日本で貿易を再開する権利も有していた。1623年、貿易開始から10年目のことである。
 要するに、イギリスが日本を去ったのは貿易がうまくいかなかったからであり(平たく言えばイギリス商品が売れなかった)、それは鎖国が成立する前のことであった。イギリスはスペインやポルトガルのように憎悪と恐怖で追放されたのではなく、自発的に去ったということである。イギリス東インド会社は、日本で売れる商品をそろえてから出直すつもりであり、それを将軍秀忠も認めていた。しかしながら、イギリス東インド会社との貿易が再開されることはなかった。
その背景には国際情勢の大きな変化があった。
実はグローブ号が平戸を去ってから50年後の1673年、貿易再開を期してイギリスの「リターン号」が長崎に入港していた。イギリス人の一行は長崎で温かく迎え入れられ、当地で貿易再開までさほどかからないであろうと当初伝えられていた。
 
 しかし状況は一変する。
原因は、オランダ人による幕府への進言にあった。
当時イギリスとオランダは戦争状態にあり、オランダ人はイギリスが貿易を再開するのを快く思わなかった。そのため、11年前にイギリスのチャールズ2世がカトリック教徒であったポルトガル国王の妹と結婚していたことを幕府に伝えたのである。
 鎖国の最大の理由はキリスト教、特にカトリック教徒の追放にあったことは当時も知られた事実であった。オランダは、イギリスとポルトガルの親密な関係を吹聴することで、幕府のイギリスに対する警戒感をことさら煽ったのである。結局これが主たる原因となって、イギリスの貿易は再開されず、英国との関係は途絶えてしまう。イギリス船が次に来日するのは18世紀末まで待たなければならなかった。
 しかしながらこの間も日英両国のお互いへの興味関心は途絶えることはなかった。
なぜなら貿易を通じてイギリスの質のよい商品や芸術作品が日本に輸入され続けたからである。当時世界を代表する大都市であった江戸とロンドンは類似点も多く、互いに意識しあう間柄でもあった*2。
 先端技術を象徴する品物であった時計や公運儀*3、都市の風景や貴族の肖像、さらには惑星などを描いた絵画は大名や有力商人への贈り物として珍重された。
18世紀も半ばになると科学技術の最先端はオランダからイギリスに移っていた。
 日本での測量に初めて用いられた八分儀*4もロンドンのヒース社製だった。特に天球の動きを説明するために用いられた公運儀は、教養人の知識欲を刺激した。「オレリー」と呼ばれたこの公運儀は、司馬江漢*5らの模写によって広まり、イギリスと日本を直接結びつけた。日本人は時計にも熱狂した。1820年代まではロンドンが時計製造の中心であり、「ロンドン時計」と呼ばれていた。それはヨーロッパの先進技術を体言する品物だったのである。
18世紀末まではイギリスからの輸入品が日本に好印象をもたらしていた。
 しかしそれも長くは続かなかった。
18世紀後半になるとイギリス船の来日や目撃情報が次第に増えていく。
1796年から2年間に渡って、ウイリアム・ブロートン船長が指揮するプロビデンス号が日本の沿海を航海して詳細に調査している。イギリスは急速に帝国主義化していた。
日本人のイギリス像は称賛から警戒へと徐々に変化していく。
転機となったのが、1808年に長崎港に入港したイギリスの軍艦「フェートン号」によるいわゆる「フェートン号事件*6」である。
 このときイギリスとオランダは戦争状態にあり、フェートン号も長崎港にいるオランダ船を攻撃するために入港してきたのである。フェートン号は周囲を欺くために、オランダの旗をなびかせて長崎港に入港し、調査のために乗船したオランダ人を投獄した上、拡声機で「出島を焼き払うぞ」と大声で叫んで、長崎の住民を恐怖に陥れた。
この事件の責任をとって長崎奉行は切腹、佐賀藩主の鍋島斉直は100日の軟禁刑に処せられた。フェートン号事件以後、日本ではイギリス警戒論の書物が増えていく。
フェートン号事件は本国イギリスでも問題になっていた。
 たった一隻の戦艦の艦長ペリューが使命を過大解釈したあげく幕府を憤慨させたことは明らかに行き過ぎであった。当時オランダの領地はフランスの支配下にあったが、オランダの元首ウィレム4世(1802年没)が海外のオランダ領地の管理をイギリスのジョージ3世に託していたため、法律的にはイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、移ったのは貿易権だけだったという事情もあった*7
汚名を晴らして幕府との関係を修復するため、1812年、スタフォード・ラッフルズ*8が、純粋に商業目的での来日を計画しはじめる。イギリス国家の目的は、貿易関係を復活させることと、イギリス国家を代表する外交官を駐在させることであった。イギリスをより豊かにし、日本には近代的な恩恵をもたらす国家的な大プロジェクトとなるはずだった。
 しかし、この計画も頓挫してしまう。
1813年ナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオランダ国王が帰国し、オランダは再び独立する。イギリスもこれを受け入れたため、イギリスは出島での貿易権を失ったのである*9
 ペリーが浦賀に現れるのはこの40年後のことである。
 江戸時代にイギリスと直接貿易した期間は平戸での10年間のみであった。
しかしながらこの期間にイギリスが日本に与えた影響は大きかったと著者は言う。
平戸の商館を閉鎖した後もイギリスの思い出は人々の心に残り続けた。また、絵画などの輸入品を通じて日本とイギリスとの間接的な関係は途絶えることなく続いていた。
江戸時代は人々の興味や関心がダイナミックに移り変わる時代であった。
 イギリスへの関心も、キリスト教への恐れから西洋美術や先端技術に代表される科学へと移り、幕末になると帝国主義と植民地化に対する警戒心に至った。
 著者の言うように、イギリスは日本にとって、中途半端な知識と想像によって形作られた独特の雰囲気をもった国だったのだろう。
程度の差はあれ、それは今もそうだし、これからも変わらないであろう。
(脚注)
*1)ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。日本名は三浦按針(みうらあんじん "按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得た。(Wikipediaより抜粋)

*2)例えば「江戸が日本最大の、ロンドンがヨーロッパ最大の都市であったのは確かである。この都市を直接比較するものも少なくなかった」「ロンドンも江戸も、規模では他の都市の追随を許さぬほどに成長していった。しかしそれは都市の大きさだけではない。ロンドンも江戸もモノが溢れていたのだ。~中略~もちろん貧困もあったが、日本では元禄(1688~1704年)、イギリスではウィリアムとメアリーの統治期(1689~1702年)は溢れる富の時代だったのだ。経済力さえあれば、一世代前には考えられないような商品が手に入ったのである。このようなモノの過剰に伴って都市に生まれたのが流行(ファッション)という概念である。流行はスピードだ。このスピードでは、日本はイギリスの先を行く」(本書より抜粋)
*3)公運儀 天文儀ではく天球の動きを説明するものである。したがって専門家が研究に使用するようなものではなく、知的な一般人への説明用の道具なのだ。テーブルや台の上に置かれ、レバーを回すことによって惑星の相対的な動きを説明するというもので、水平に並べられた惑星が、中央に位置する太陽の周りを動くようにできている。英語では「ワールド・マシーン」や「プラネタリウム」と呼ばれることもある(本書より抜粋)。
*4)八分儀 天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。(Wikipediaより抜粋)
*5)司馬江漢(しば こうかん、延享4年(1747)-文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す(Wikipediaより抜粋)
*6)フェートン号事件 文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入した事件。オランダ商船を捕獲する目的で,東インド総督ミントーの政策を受けてイギリスの『フェートン』号がオランダ国旗を掲げて長崎に来港,艦長ペリュー大佐は,オランダ商館員を逮捕し,長崎奉行に飲料水と薪,食糧などを供給するよう要求した。奉行は要求をいれて,燃料,食糧を供給することと引替えに,拘束された人員を釈放返還させ,『フェートン』号は退去して事なきを得た。この事件の責任を感じて奉行松平康英は自決。蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要を上申したがいれられず,江戸幕府は文政8 (25) 年いわゆる異国船打払令を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐことになった(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)。
*7)1795年にフランスがオランダに侵攻して以来、オランダの領地はフランスの支配下にあった。オランダの元首ウィレム4世(1802年没)はイギリスに逃れ、海外の領地の管理を血縁のあるイギリスのジョージ3世に託していた。つまり、ジャワなど海外のオランダ領地は、法律の上ではイギリスのものであった。ただし出島はオランダの植民地ではなく、幕府からの借用地であったため、イギリス領であると言い切ることはできなかったのである。イギリスに移ったのは貿易権だけであった。
*8)トーマス・スタンフォード・ビングレイ・ラッフルズ(Sir Thomas Stamford Bingley
Raffles、1781年7月6日 - 1826年7月5日)はイギリスの植民地行政官、シンガポールの創設者である(Wikipediaより抜粋)。

*9 )1813年にナポレオン帝国が崩壊すると、イギリスに亡命していたオラニエ=ナッサウ家の一族が帰国し、ウィレム1世が即位して南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)を含むネーデルラント連合王国を樹立した。これが現在まで続くネーデルラント王国(オランダ王国)の始まりである(Wikipediaより抜粋)

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八分儀
八分儀(はちぶんぎ、Octant)は天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。 この機器にちなんだ、はちぶんぎ座という星座がある。
出典:ウィキペディア(Wikipedia)


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史蹟「三浦按針屋敷跡」 日本橋室町1丁目10?9
『ウイリアム・アダムスは 西暦1564年イギリスのケント州 に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて 江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・ 地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に 通商の顧問となり、日英貿易に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸で没した。 日本名三浦按針は 相模國三浦逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。』


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司馬江漢写并刻 〔寛政6年(1794)頃〕刊 銅版筆彩 
司馬江漢(1747-1818)による我が国最初の銅版世界地図で、地球が球体であることがはっきりわかるような図様になっている。初版は『輿地全図』と題されて寛政4年(1792)に出版された。平賀源内の影響で蘭学に関心を持ち、日本初の腐食銅版画の製作や西洋科学知識の紹介に力を注ぐ。

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