書名「江戸芸術論」(岩波文庫)
著者 永井荷風
永井荷風の江戸芸術論である。
内容は浮世絵が中心である(狂歌論と演劇論も)。
挿絵がいっさいなく、すべてことばで説明しているのが特徴である。
それは荷風が浮世絵を視るときのまなざしであり、その軌跡を追うことで荷風の浮世絵をみつめるときの視点を辿ることができる。それは明治中期に「永井荷風」が見いだした「浮世絵の価値」を知るすべとなる。本書の一番の醍醐味はそこにあると言えよう。
一例として葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』の描写を見てみよう。
「第三図は童児二人紙鳶(たこ)を上げつつ走りゆく狭き橋の上より、船の檣(ほばしら)茅葺屋根の間に見ゆる佃島の眺望にして、彼方に横(た)はる永代橋には人通り賑やかに、三股の岸近くには(第四図)白魚船四ツ手網をひろげたり。桜の花さく河岸(かし)の眺め(第五図)は直ちに新緑滴る元柳橋の夏景色(第六図)と変じ、ここに包みを背負ひし男一人橋の欄干に腰かけ扇を使ふ時、青地の日傘携へし女芸者二人話しながら歩み行けり」
本書で紹介されるすべての作品はこのようにことばで詳細に描写される。作家の高橋克彦は後年になって作品がすべてことばで説明されていることに気づき、そのときはじめて本書の本当の価値を悟ったとあとがきに記している。
江戸芸術は江戸の風俗や文化と切り離せない芸術であった。
荷風は言う。「当時の芸術はその時代とその風景のみならず総ての事物に対して称賛と感謝の情とを以て感興の最大源泉となし、江戸と称する都会のいかに繁華にその生活のいかに面白くいかに楽しきかを描き示さんと勉めたり」。
それは美術としての価値に加えて宗教的な精神的慰藉をも感じさせてくれる「真正自由なる芸術」であった。
江戸後期に海外で高く評価された日本の芸術作品は、政府の庇護のもとに栄えた狩野派のような官営芸術ではなく、庶民の生活の悲哀と細やかな喜びを写した浮世絵であったことを、荷風はまるで我がことのように誇る。浮世絵は大邸宅の大広間で仰ぎ視るような絵画ではなく、小さな部屋で引き出しからそっと出して眺めるような庶民の芸術であった。
歌川広重と葛飾北斎との比較がおもしろい。
荷風によればこの浮世絵の2大巨頭の画風は対照的である。
「北斎の画風は強く硬く広重は軟かく静なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の草画(そうが)よりも更に清楚軽快の思あらしむ。~中略~北斎は山水を把りてこれを描くに当り山水それのみには飽き足らず常に奇抜なる意匠を設けて人を驚かせり。これに反して広重の態度は終始依然として冷静なるが故にやや単調に傾き変化に乏しき観なきに非ず」。
比較は創作の心理にまでいたる。
「北斎は先立ちて深く意識し、常に期待し、常に苦心して、何らか新意匠新工夫をなさずんば止まざる画家なるべし。然るに広重は更に意を用ふるなく唯見るがまま興の動くままに筆を執るに似たり」。
浮世絵と芝居との関係も興味深い。
江戸庶民の最大の楽しみは芝居であり、興味の関心は役者であった。それが浮世絵にも反映している。役者にとどまらず芝居の背景すら浮世絵の題材であった。
「江戸の市人は俳優に対して不可思議なる情熱を有したり。彼らはただに演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。~中略~今延宝元禄より元治慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移は自ずからまた各時代の俳優が芸風の変化に思到らしむべし」。
荷風の生きた時代は浮世絵の衰退期であった。衰退期の浮世絵は美術から風俗資料へと変化していく。そしてそれはやがて東京最初の日刊新聞へと連なるのである。
「衰滅期の浮世絵は全く今日の新聞紙に等しき任務を帯びぬ。~中略~浮世絵は実にその名の示すが如く社会百般の事挙て描かずということ無し。~中略~ 浮世絵は比の如く漸次社会的事変の報道となり遂に明治5年芳幾(注1)が一枚絵には明らかに『東京日日新聞』の名称を付するに至りぬ」。
鎖国によって海外からの影響を免れ、国内で独自にはぐくまれた江戸芸術。それは庶民の芸術でもあった。その変遷と価値について、荷風の目を通して解説したのが本書である。
そこには荷風の江戸芸術への深い愛情と尊敬が感じられ、読んでいて心地よかった。
注1)落合芳幾 幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。明治5年(1872年)、条野伝平、西田伝助とともに「東京日日新聞」の発起人となり明治7年(1874年)10月には錦絵版『東京日日新聞』に新聞錦絵を書き始め、錦絵新聞流行の先駆けとなる。芳幾は明治8年7月まで挿絵を担当していた(Wikipediaより抜粋)。
国立国会図書館デジタルコレクション