第二回 日本農業に革命をもたらした江戸の編集力

書名「江戸の編集者」(岩波書店「図書」9月号より)
著者 横田冬彦

 江戸時代の出版事情について、岩波書店が毎月発行している雑誌「図書」9月号におもしろい話が載っていた。日本ではじめて発行された農業に関する専門書の話である。その専門書とは、教科書で一度は目にしたことがある宮崎安貞の「農業全書」である。

 この本がどういういきさつで書かれ普及していったのか、京都大学の横田冬彦名誉教授が詳しく解説している。そこには今日で言う編集者とプロデューサーの存在があった。
日本の商業出版は1630年代頃から本格的に普及し始め、元禄9年(1696)版の出版目録によれば、当時既に7000点以上の本が出版されていた。
 
 しかしその中に農業の専門書はまだ一冊もなかった。安貞は自らも農業経営を行いながら各地の先進地農法や農術を研究していた。やがて海外の農業技術にも関心を示すようになり、中国の「農政全書」(明の時代に徐光啓が著した)を参照しながら、日本にも適用できる中国農法がないか模索するようになった。こうして実に40年以上研鑽を続けた成果が「農業全書」であった。

 安貞は自らの研究成果を広く世に示し、多くの農家に活用してもらいたいと思ったに違いない。しかし、果たして当時の農民にこの本は読まれるのか、それ以前に農民に本を読む習慣はあるのか。それが問題であった。この問題を解決したのが、これも教科書で見覚えがある、「養生訓」で有名な貝原益軒である。
安貞から相談を受けた益軒は新興の書肆(出版社兼書店)であった柳枝軒に話を持ち込んだ。益軒と柳枝軒が吟味した結果「農業全書」の出版が決まった。

 なぜ益軒と柳枝軒は「農業全書」が農民に受け入れられると確信できたのか。益軒は元禄元年に奉じていた福岡藩から「筑前国続風土記」という地誌編纂を命じられ現地調査のために領内全域の村を訪れたことがあった。そのときの経験から益軒は庄屋クラスの農民が本を読むことを知っていたのである。

 もちろん、読むというだけで読んでもらえるほど甘くはない。益軒はより多くの農民に読んでもらうために、様々な工夫を凝らした。図版を効果的に挿入したりして、表記法や体裁を工夫して読みやすくするのはもちろん、福岡藩の後援や御三家徳川光圀の推薦文を得るなど、本の権威付けにも奔走した。
柳枝軒も負けてはいない。「農業全書」の利用法を詳細に解説した別巻「付録」を発行し、どのように読み、利用すべきかの具体例を示して、読者の理解を助けた。
 こうした努力のかいがあって「農業全書」は期待通りに普及していったのである。
伝承によって引き継がれてきた「経験知」は、限られた地域でしか普及することができなかったが、「農業全書」によってもたらされた「書物知」は地域を越えて広がっていった。日本の農業は、それまでの「経験知」による農法から「書物知」を活用する農法へと変わっていったのである。
 それだけではない。「農業全書」以後に発行された農業専門書は、中国農書ではなく「農業全書」を基準書として書かれるようになった。すなわち「農業全書」は農民を単なる受け手としての読者から、自ら思考して意見を表明する読者へと変えたのである。


「書物知」による洗練された農法が広く普及していくにつれて、日本の農業は格段に進歩した。日本初の農業専門書「農業全書」は日本農業に革命をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
益軒と柳枝軒は「農業全書」の価値とその可能性とをいち早く見抜いた。その発想の柔軟性と先見性そして思考の合理性に学ぶべきところは多い。

 江戸初期の二人の出版人がもたらした功績はどんなに称賛しても足りない。

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農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

国立国会図書館デジタルコレクション












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農業全書 宮崎安貞 著 
出版者_学友館 
出版年月日_明治27年10月

国立国会図書館デジタルコレクション










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江戸の出版量グラフ
平成24年4月27日 神田雑学大学定例講座
講師 橋口侯之介氏(誠心堂書店店主・成蹊大学文学部講師)
「江戸の出版事情」講演録より引用

このブログ記事について

このページは、江戸東京下町文化研究会が2019年1月 1日 06:30に書いたブログ記事です。

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