2018年10月アーカイブ

第一回 幕末の生き証人が語る江戸風俗

書名「幕末の江戸風俗」(岩波文庫)

著者 塚原渋柿園  

 著者の塚原渋柿園(じゅうしえん)は嘉永元年(1848年)江戸市谷生まれ。80石の根来(ねごろ)百人組(江戸幕府の鉄砲隊のひとつ)与力で、維新のとき21歳だった。まさに幕末における江戸風俗の生き証人である。「江戸の変遷の有り様を、私が見た通り、否、むしろ出逢ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話してみようと思う」と言うように、当時の江戸の様子がいきいきと具体的に記されている。維新で生活が一変した武士たちが家禄を没収されて都落ちするときの悲惨な境遇や、武家の商法でまたたくまに全財産を失い没落していく様子が詳細に描かれていて、悲哀を感じないではいられない。

 一方、庶民はいつもしたたかでしぶとく元気だった。年末最大の行事だった「煤掃い(すすはらい)」の話がおもしろい。陣羽織を着たりひょっとこのお面をつけたりして大騒ぎでばたばたやり、終わったあとは「目出た目出たの若松さアまアよー、えーだ(枝)もさアかアえー(栄え)て、葉もしいげる(茂る)御目出たや。アーヨイ、ヨイ、ヨイ」とみんなで唄って貴賤上下の関係なく胴上げをしたという。おもしろいのはその際に、日頃意地悪な輩を、その復讐とばかりに、「アーヨイ、ヨイ、ヨイ」の最後の「ヨイ」で落としたこと(これを俗に「揚げっ放し」といった)。落とされた方は地面にたたきつけられて目がくらんだり、鼻血を出したり、ひどいときには腰をくじいたり膝を折ったりしたらしいのだが、まわりの「おめでたい」に圧されて苦情も言えず、したがって落としてもおとがめなし。女中たちはこれが楽しみで何日も前から胴上げのときの歌の内容を話し合っていたという。 

 江戸の教育事情の話もおもしろかった。幕府が庶民の文教を奨励したため、寺子屋(江戸では手習い師匠と言った)が栄えて、幕末には400件以上あったらしい。何でこんなに多かったかというと、寺子屋を開いて弟子を40~50人もとれば、幕府が当時武士の特権であった「苗字帯刀」を許したから。さして儲からなかったが名誉欲しさに競って寺子屋を開いたという訳である。驚いたのは物理学や天文学を教えていたこと。当時は「日の中には烏(からす)がいて、月の中には兎(うさぎ)がいて、地の底には大鯰(なまず)が棲んでいて髭を動かすと大地震になる」といったいわゆる「須弥山(すみせん)説」が支配的であったにも関わらず、である。禁書とされた洋書の翻訳が、実際にはかなり出回っていたことになる。庶民の多くは西洋の文明がはるかに進んでいることを理解していたらしい。黒船が来た時も人びとはさして不思議に思わず、これではとてもかなうまいとただただ落胆するばかりだったという。

 草創期の新聞事情が、ほのぼのとしていておもしろい(著者は日本の日刊新聞第一号である横浜毎日新聞の記者だった《その後東京日日新聞に移籍》)。発刊当初は4ページを記事で埋めることができず、最終ページを白紙で出して「読者がご自由にお書きください」と添え書きしていたなんていう話も出てくる。

 当時新聞界の二大巨頭であった東京日日新聞の福地桜痴(源一郎)と朝野新聞の成島柳北が、新聞体裁論で大激論した話がよほど印象に残ったのか、本書には2回出てくる。ただ、おもしろいのはこの激論の内容よりもその終わり方である。双方が意地の張り合いで決着がつかず、場が気まずくなりかけたころあいを見計らって、「烏森(からすもり)の春本いく」というお婆さんが登場し「書生じゃあるまいし、こんな席でわけのわからない議論なんておよしなさいよ。さあお前たち、何をまごまごしているんだよ。かっぽれでも早く踊りな!」と一喝、これを合図に17~8人の芸妓がなだれこんで来ていっせいに「かっぽれ、かっぽれ!」とやりだして、一同これを幸いに笑っておしまいという終わり方である。このお婆さんは「留め女」と呼ばれていた。こんな呼び名があるところを見ると、議論で喧嘩になることはよくあったのだろう。「留め女」は庶民の知恵のひとつと言えよう。、

 江戸市民に税金がなかったことや江戸ことばの変遷、武士のファッションなど、本書には他にもおもしろい話がたくさんあるがここでは紹介しきれない。興味のある方はぜひご一読を。


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女児専門の寺子屋の授業風景

絵本栄家種(えほんさかえぐさ)/勝川春潮 画

寛政2年(1790)








年末 煤払い .JPG





十二月煤拂 下女胴上げの圖 三代豊国画








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カバー図版 「大横町の夜景」

(山本松谷「新撰東京名所図会 」明治3610

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