江戸一番の繁華街~日本橋通りを江戸の人と一緒に歩く!(弐)

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文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」絵巻 。
(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵

          

その弐  220年前の通白銀(とおりしろがねちょう)町界隈

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通銀町(とおりしろがねちょう)

通銀町は、本銀町道と通町筋が交差する場所で、町を外部と区切る黒塗りの木戸がある。向かいの木戸両側には自身番屋と木戸番屋があり、多くの人々が行き来する。路上には 雪駄直し、易者、小間物屋、食べ物屋などの仮設店舗があり、職人たちが活躍している。

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豆注1

「熈代勝覧」 に描かれた町並みの切絵図を参照にした図

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豆注-2

「熈代勝覧」絵巻部分の現代図(左)と江戸末期図(右)の比較参照図 *「大江戸今昔めぐり」より

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*各絵のみかた・探し方>
例)【売ト者】 7-U > 上記の通白銀(とおりしろがねちょう)町界隈絵の右数字 7下英字 Uをクロスしたエリアを見つけてください。

【売ト者】 7-U

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売ト者(ばいぼくしゃ)

左側木戸の前筮竹(ぜいちく)の脇には算木(さんぎ)置く。
広げているのは易断(運勢・吉凶を判断)書。

大八車 11-U

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天和2年(1682)には江戸市中に2千輌の大八車があった。
享保12年(1727)には3千~4千輌などともあり、1
9世紀初めには、さらに多数に及んでいたことが想定できる。

江戸の陸上交通での荷物の運輸手段としては、人が直接背負う以外には、馬、牛車、大八車の三つの形態があった。このうち、最も発達したのが大八車。 大八車は明暦大火の後、牛車大工八左衛門が人力の荷車を工夫し発明したとされる。 この説が正しければ、牛車の荷車が派生した形態ということになる。

菓子売 (屋)】9-R

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砂糖が大変貴重であっ当時は、日持ちする干菓子(ひがし)や
飴(あめ)類が主流であった。

値段>下り飴4文が定価(4文銭1枚)

菓子売 (屋)8-E

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式亭三馬の「浮世床」(文化8年<1811>)に、おらんだようかん、
本ようかん、 羽二重もち、最中まんじゅう、紅梅、いがもち、うぐいすもちなど紹介。

研ぎ屋 8-P

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包丁や挟みなどの刃物を研いだ。
売り声は「はさみ(挟)ほうちょう(包丁)かみそり(剃刀)とぎであった。

武家駕籠11-K

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二人舁きと四人舁きがあり、 駕籠舁きを陸尺(ろくしゃく)という。 男性で駕龍に乗るのはかなり身分の高い人物だが、
町なかで乗っている のはほとんどがお武家の女性。 姫駕籠は、蒔絵に飾り金具の外装で 内装も金碧の源氏絵や業平絵、 花鳥画など華麗。

牛車10-G

>02-10 牛車 .JPG

江戸の町は、大名屋敷や寺社が高台にあって坂が多く、大きな橋には反りがあった。
そこで、 材木や石材、大量の米俵など、重いものは牛車で運んだ。 武家の乗り物である馬には、
基本的に物を引かせることはしないが、遠路の米の運搬や人を運ぶことはあっ た。
大八車は坂や橋の多い江戸市中で重い荷を運ぶのに重宝で、人が引いたり、牛に引かせたりした。

自身番屋6-Z

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町内の警備を主な役割とし、町人によって運営された施設。自身番の使用した小屋は「自身番屋」
または「番屋」と呼ばれた。

自身番屋は、たいていは東西の往来の大通りに面した四ツ辻の南側角に設置されていた。この小屋は土間と奥に畳を敷いた部屋を備え、冬には夜番の者がここで温まったと言われています。番屋の戸口には「自身番」と町名が墨書された腰障子があり、夜も障子が閉めず開け放しと定められてた。また、番屋は町内の事務処理や町内への通知、呼び出しを受けた者への送達なども行なった。ここに詰めた番人は番太と呼ばれた[。

木戸番屋 15-U

>02ー13 木戸番屋(商番屋).JPG

自身番屋に付属し、 その機能を補佐する役割を持たされた。 6尺×9尺の広さの番屋でここに詰める番人は町によって雇用され、町の家守中の管理下で、夜回り、喧嘩の取り鎮め、 捨て物の発見などを任務とした。

「守貞稿」によると、ぼうき草履・草鞋・鼻紙・?燭・瓦・火鉢・菓子などを商い、冬 には焼き芋、夏は金魚も売るとある。ここでいう瓦とは、焙烙など粗末な焼き物のことではないか。 とすれば、全体として、庶民の日常に欠かせない必需品の多くが、 商番屋で扱われていたことになろう。

合羽桐油屋 6-S (山田屋平右衛門)

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*「桐油合羽」(とうゆがっぱ)は、油紙で作られた合羽で、
主に旅行時の雨具として用いられました。上等品はえごまの実からとった油を、
下等品は桐油を和紙に塗って防水性を持たせたもので仕立てられています。
この防水衣は、古くから外出着として使われ、ただの厚紙のものは「油単(ゆたん)」と呼ばれて
荷物の雨覆いにも利用された。

建看板>合羽型

書物問屋 7-N (須原屋善五郎)

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江戸の書物 問屋須原屋一門に属する、おそら く須原屋茂兵衛の暖分けであろ う。
独立年次は分明でないが、 遅くとも天明期には出版活動を展開、須原屋市兵衛と合梓した。
文化3年3月の江戸大火後も同一住所 (同一場所)に店舗を構えていた。

江戸時代の日本橋周辺では、本屋が盛んで、特に「須原屋」が有名でした。この地域はお城に近い方から一丁目、二丁目と呼ばれ、上方の版元が江戸店を出した地本問屋もありました。須原屋善五郎や須原屋市兵衛は、出版社兼販売店として活躍し、有名な杉田玄白の「体新書」も須原屋から出版されました。絵は秋田角館の江戸詰藩士、小田野直武によって描かれた。

【仏具屋 6-L  万屋半兵衛

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暖簾>水引暖簾 仏師万屋

汁粉餅・雑煮屋6-J藤屋)

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汁粉餅・雑煮屋「藤屋」さん、こんな小さな店が目抜き通りにある。
瓦じゃなくてとんとん葺(ぶき)の平屋の店は、日本橋通りでここ一軒だけ。
商いはきびしい感じかな?

>汁粉餅も雑煮も銭十二文。

指物屋6-G

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障子看板> 「指物屋」「さしもの所」

仕出屋 6-B

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障子看板>「仕出 御士組 ご希望次第 大平 吸物 丼 いろいろ」

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※ 銭一文= 江戸前期から中期で約20円~25円、 江戸後期で約30円に目安参考

  参考サイト=日本銀行貨幣博物館>
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/edojidaino1ryowa/

参考資料 
『熈代勝覧の日本橋』(小学館)・『大江戸日本橋絵巻』 (講談社)
『江戸の物売り』(東峰書房)・『江戸東京生業物価事典』(青蛙房)・
『日本大道芸事典』(岩田書院)・ 『江戸の生業事典』(東京堂出版)・
『東京市史稿』(東京都)・『貨幣博物館』・『大道芸通信』ほか

       

この記事について

このページは、江戸東京下町文化研究会が2024年6月 6日 18:16に書いた記事です。

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