お正月を迎えるとすがすがしい気持ちになるのは江戸の昔も今も変わりません。しかし、比べてみると変わったことも多いようです。江戸時代には現代のような曜日や休日感覚はなく、正月と盆に加え五節句や寺社の縁日を中心に、仕事を休んでいただけです。また正月2日は、新年の顔合わせ的な要素も強く、仕事は午前で 終え、午後からは祝い膳を囲むことが多かった ようです。 改めて江戸の正月風景を見てみましょう。
初日の出
江戸の正月は、静かだが朝は早い。中でも「初日の出」を拝む人たちは、月明かりの全くない大晦日 《(おおつごもり)大月籠(おおつごもり)・新月)》の夜道を、 目的地まで黙々と歩きました。 当時、 初日の出 を迎える名所は高輪、 芝浦、 愛宕山、神田、湯島、深川洲崎堤防などです。いずれも海に面しているか、海の見える高台にありました。
▲『江戸名所図会』 挿絵: 長谷川雪旦 着色: 広報部会 福島信一
新年の祝い
一方、町中(まちなか)は綺麗(きれい)に掃き清められ、 前夜遅くまで続いた喧噪がうそのように全ての見世 (店)は雨戸を閉め、物音一つしない静けさの中で新年を迎えました。それでも初日の出を拝み終えた人たちが家路につく頃には、皆起き出しました。 家長を中心に若水(わかみず)を汲み、その水で雑煮を煮、福茶(ふくちゃ)を飲んで新年を祝うためです。
「若水」は新年の最初に汲みあげる井戸水のことです。 江戸の水道は、蛇口をひねると水が出るものではありません。文字通り水の通る道、水路のことです。四谷大木戸までは露天のまま、そこから先は地下に埋設された木樋を通って市中を巡っていました。 木樋には、所々に水を溜める枡が設置され、地上と枡は井戸でつながっていました。 その井戸から最初に汲みあげる水が若水です。 汲みあげた水はいったん瓶(かめ)に入れ、必要の都度手桶で器に移して利用しました。お正月にはこの手桶も新調して輪飾りをかけ、瓶から水を汲む場合は恵方に向かって汲むのが習わしでした。
「福茶」とはお茶に梅干または結び昆布、あるいは両方を入れたものです。西日本各地では現在も広く行われて いますが、 東京では絶えた風習のようです。
恵方参りと年籠・初縁日詣
新年の祝いが終わると、再び静けさが戻ります。 その後は恵方参りや氏神への初詣に出かける者もありましたが、 多くは終日のんびり過ごしました。 当時は現在のような初詣習慣はなく、初子(大黒天)や初不動(不動明王)などへの初縁日詣がいわば初詣のようなものでした。
「恵方参り」は、歳徳神《とくとくがみ (その歳の福徳を司る神で、干支によって毎歳変わる)》のいる寺社へ参詣することです。氏神への初詣は、元来「年籠」(としごもり)でした。家長が大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神のところへ籠る(年を越えて籠る)ことです。 今年一年無事に過ごせたことへの感謝と、新年の無事と平安をお願いするためでした。これが、大晦日の「除夜詣」と 元日の朝の「元日詣」の二つに分かれたのです。 除夜詣(じょやもうで)は除夜の鐘突きに残り、元日詣は初詣に変化したとされています。 なお、今のような氏神と全く切り離された初詣をするようになったのは、明治も半ば以降のことです。その頃発達した鉄道各社が、自社の経営する鉄道沿線にある寺社への誘客運動の一環として行ったのが最初とされます。
宝船売り
正月元旦もしくは二日に売り歩いていた「宝船売り」。
これを枕の下にひいて寝るといい夢が見れると信じていたものです。
七福神を乗せた船の周りに書かれてある文字は回文 (前後どちらから読んでも同じ文)になっているのです。
「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな(長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな)」。
売声は~ 「おたからお宝お宝 初夢 吉夢福の夢 福夢見たいと願うなら 枕の下に宝船 お宝お宝お宝」と言ってました。 なお宝船の刷り色は、たいい赤色です。 余談まがら疫病神の刷り色も同じ赤色であったのが面白いです。
▲「七福神宝船図」歌川広重画 日本銀行貨幣博物館蔵
鳥追いと小鰭の売り
元日をゆっくり過ごしたからでもないでしょうが、2日になると早朝より全てのものが動きだしました。初荷、町火消しの出初(でぞめ)、太神楽(だいかぐら)、鳥追(とりおい)、万歳、小鰭の鮨売り、宝船売りや暦売り、文武の稽古始めなども一斉に始まります。中でも江戸に独特なのが「鳥追」と 「小鰭の鮨売り」でした。
「鳥追」は元来、農村での害鳥駆除と豊作を願う小正月(こしょうがつ)行事です。拍子木や太鼓などを賑々(にぎにぎ)しく敲きながら大声をあげて歌い歩くのは、害鳥を追い払うための有効手段だからです。これを真似たのが年末に現れる「節季候」(せきぞろ)であり、年始の「鳥追」です。『嬉遊笑覧』が「毎年臘月《ろうげつ (12月)より節季候となり、元日より15日まで鳥追となる」》と書いているように、現れる時期が違うだけで、元は同じものでした。
鳥追については『守貞謾稿』が「今は京坂にはいないが、江戸には沢山いる。 しかも男ではなく、女太夫がしている」と書いています。 「女太夫」は普段から2、3人連れで三味線や胡弓を弾き語り歌う、いわばストリートミュージシャンのことです。 これを元日(実際には2日)から15日までの間に限り「鳥追」と呼びました。普段の菅笠を編笠に換え一段とおめかしして着飾り、目出度(めでた)い歌を歌い、金銭を受けていました。江戸の鳥追が女太夫であったのは、江戸が極端な男社会だったからです。 単身赴任の武士が人口の半分、 残り の半分も農家の次男、 三男などの出稼ぎ者が多かったからです。 そんな男社会だから、女太夫にとっては普段でも武家屋敷長屋は最も稼げる場所でした。一度に市中の10倍20倍ともらえたからです。逆に言えば、武家長屋住まいはそれほどの侘び住まいでした。 まして人恋しくなる正月は、普段にも増して心寂しく気は立っていました。そんな処へボロをまとって割竹を激しく叩きながら大騒ぎする節季候姿で現れたら、騒動のタネを持ち込むようなものです。ここは一つ、割竹を三味線に持ち換えた女太夫の方が相応(ふさわ)しい。「鳥追」に変じた女太夫が、市中へ繰り出していきました。
同じ頃、 渋いながらもよく通る声で売り歩いたのが「小鰭の鮨売り」です。「坊主騙して還俗(げんぞく)させて小鰭の鮨でも売らせたい」という都々逸が流行ったほど、声の魅力で売っていました。蓋の上に紅木綿(べにもめん)をかけた鮨箱を重ねて肩へ担い、水浅葱(みずあさぎ)の染手拭はもちろん、衣類股引腹掛から足袋(たび)草履(ぞうり)にいたるまで新調し、正月2日の朝から「こはだのすしイ」と呼び歩いていました。『守貞謾稿』も「重ね筥(ばこ)に納めて之を肩にす。 (中略) 初春には専ら小はだの鮨を呼び売る」とあります。 これも江戸の正月には欠かせない光景でした。
▲歌川国貞画 女太夫 『江戸名所百人美女』 東京都立図書館蔵▲小鰭の鮨売 『狂歌四季人物』 国立国会図書館蔵
日本橋初売
正月2日の朝市でとくに賑わいを見せたのが魚河岸の初売りです。
朝市は下図にあるように大勢の買い物客であふれかえっていました。
日本橋魚河岸の始まりは、江戸時代初期、徳川家は江戸城内の台所を賄うため大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せ、 江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになりました。これが魚河岸の始まりと言われています。日本橋の魚河岸は関東大震災の被害によって築地に移転されるまで、江戸および東京の台所として活況を呈しました。
▲橋本貞秀画「大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売」東京都中央図書館蔵
扇箱買と餅網売り
当時年始の挨拶廻りにつきものだったのが、扇を入れた「扇箱」(おうぎばこ)でした。 扇といっても立派なものより、「ばらばら扇」などと陰口をたたかれた粗悪品が多かったようです。 それでも売れたのは、来客の多さを誇る見得のため、箱のまま井桁に組んで玄関先へ積み上げておく風習があっ たからです。ですから貰いの少ない家では、わざわざ扇箱を買ってまで積み上げていたといわれます。
そうまでして集めた扇箱も、松の内を過ぎると不要になります。心得 たもので、来年用に扇箱を買い集める人がいました。それが 「扇箱買」です。「売る内にもう買いに来る扇箱」という川柳は、人より先に買い集めようと繰り出す扇箱買を皮肉ったものです。
小正月(1月15日) ころに「餅網(もちあみ)売り」が来ると、子供たちも正月遊びをやめさせられ、正月が終わったことを実感しました。この餅網は、餅を焼く網ではありません。 氷餅《こおりもち(かき餅)》を網に入れ、富士山の氷溶(こおりとか)し(6月1日の山開き、現在は7月1日)まで保存しておくための網です。 こうして正月が終わり、 大人も子供も楽しみにしていた2月の初午(はつうま)・ 稲荷まつりの準備が始まるのでした。
▲払扇箱買 『狂歌四季人物」 国立国会図書館蔵