秋から冬へかけて江戸の年中行事と生業(なりわい)
▲ 挿絵: 『東都歳時記・盆中往来の図』 長谷川雪旦画 国立国会図書館蔵
詞書(左) 「盆迄は秋なき門の灯籠哉」 嵐雪
詞書(右) 「衣なる銭ともいさや玉まつり」 其角
秋から冬にかけて、 おもな行事や生業(物売りや大道芸)の光景
現在の秋は9月から10月までですが、江戸時代は7月から9月まででした。
七夕(たなばた)祭
七月は七夕と盂蘭盆(うらぼんえ)と続きます。
徳川幕府が*「五節句」の一つとして制度化し、年中行事となりました。
色紙の短冊に願い事を書き葉竹(はちく)に飾り、六日の夕方から竿竹や物干し竿まで使い、高く掲げることを競いあいました。
七夕行事のいわれ
・中国から渡来した、織姫と彦星の星伝説と*乞巧奠(きっこうでん)行事(七夕の夜に技芸の上達を願う祭り)と日本古来の女性が機屋で神御衣(かんみそ)を織り上げる棚機津女(たなばたつめ)の説話が結びつき、七夕を「たなばた」となりました。
* 縁起の良い「陽数」とされる奇数が連なる日を「五節句(ごせっく)」と云います。
・人日(じんじつ)の節句(1月7日)(七草)
・上巳(じょうし)の節句(3月3日)(桃)
・端午(たんご)の節句(5月5日) (菖蒲)
・七夕(しちせき)の節句(7月7日) (笹)
・重陽 ちょうよう)の節句(9月9日 (菊)
*乞巧奠(きっこうでん)
陰暦七月七日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事で、日本でも奈良時代以来、宮中の節会(せちえ)としてとり入れられ、在来の棚機津女(たなばたつめ)の伝説や祓(はら)えの行事とも結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となりました。
この節句は、季節ごとの旬の食べ物や風習と結びつき、日本の伝統行事として各地に受け継がれています。
▲挿絵:『江戸年中風俗之絵・七夕』橋本養邦画 国立国会図書館蔵
▲写真:日本の乞巧奠(きっこうでん)の飾り
(武蔵大宮八幡宮の乞巧奠 清涼殿で平安時代の七夕を再現する乞巧奠飾り)
七夕の竹売り
七夕祭りの竹は、六日の昼頃まで、『たアけや、たアけや、たアけや』 の声と共に売りに来ました。
この声は市中に響き、各戸裏屋にいたるまで必ず求めたといいます。
▲挿絵 :『世渡風俗図会・竹賣』 清水晴風画 国立国会図書館蔵
詞書「竹賣 此竹賣は精霊會 年の節句の飾り竹等を賣り 来る者なり」
七夕とそうめん
七夕にそうめんを食べる由来
七夕の節句に欠かせない供物「そうめん」~なぜ食べるのか?
・七夕の行事食として知れるそうめんは、宮中で食べていた*索餅(さくべい〈高級唐菓子〉)を食べると疫病にかからないといわれ、素麺(そうめん)はその索餅から発展したものといわれます。
無病息災を願って食べた索餅が素麺に代わり、 七夕の日に食べられるようになったようです。
▲挿絵 :
*「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」第四巻・商人部(あきんどのぶ)『素麺師そうめんし』国立国会図書館所蔵
*「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」は、元禄3年(1690年)に出版された江戸時代前期の生活を図解した風俗事典。
*索餅(さくべい)
そうめんの元祖は、三国時代の魏で作られた「索餅(さくべい)」といわれます。 索餅は、糯米(もちごめ)粉をこねて細く伸ばし、ねじり合わせ油で揚げたお菓子です。
索餅を日本では「麦縄(むぎなわ)」とも呼び、ねじり合わせた姿が、織り姫の織る糸の束のように連想させます。
現在の素麺と同じ作り方や形ができあがるのは室町時代で、
材料も当初の糯米から小麦粉と混ぜ、更に小麦粉の比率を上げ、遂には小麦粉だけの素麺(素麺)となり、読み方も「さうめん」と発音されるようになりました。江戸時代、 水車が動力として使われ、製粉機が生まれ、製粉量も飛躍的に増え、素麺、冷や麦、饂飩つくりも盛んとなり、今の乾麺スタイルの素麺が定着。江戸中期以降ようやく庶民にも身近な食べ物となり各地の名物にもなってきました。
>宮中儀式「七夕の節句」索餅使用記録
延喜式 大膳年科(927年)「七夕の節句」に「索餅」料を記した最初の記録。『索餅料 小麦卅石、粉米 九斛(石)、紀伊塩 二斛七斗 (以下略)』
>無病息災祈願由来
「素麺 うめん 索餅の 音転也、又素にその音あり、索餅も同じ 七月七日に索麺を用るは、十節記に、是日食索麺、其年中疫病といふに据る也 (*『古事類苑 飲食部』倭訓の栞〈わくんのしおり〉より)
*『古事類苑』は明治政府により編纂が始められ大正三年(一九一四)に刊行した官撰百科事典。
古代から慶応三年(一八六七)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂。
井戸浚(さら)い
七夕当日は江戸中が井戸浚いをする日です。
皆で水を汲み干して浚いました。井戸の化粧側をはずし、滑車で桶をおろし、水を掻き出しました。
七部通り汲み干したところで井戸職人と交替。井戸職人は水にくぐって井戸側を洗い、
底に落ちているものを拾いだし、水を汲み干したらまた元の通りに化粧側を戻しました。
その上で戸板を井戸の上にかぶせ、御神酒と塩を添えて載せ午前中に全て終えました。
七夕と井戸浚いを終えると、すぐに盂蘭盆の準備です。
▲ 挿絵:『井戸さらい』 川原慶賀画(シーボルトの絵師 )ライデン国立民族学博物館蔵
苧殻(おがら)売り
七夕の翌日から、迎え火に焚く苧殻売りが七月八・九日頃より来ました。
売り声は『おむかえ おむかえ』 だが、此の声を聞くと子供は怖がったようです。 親が子をしかる際
「悪いことばかりすると 御先祖様に連れて行ってもらうから」と脅された結果です。
絵解き地獄極楽もそうですが、子供時代に育まれたことは、大人になっても心の片隅に残っているものです。
とりわけ地獄極楽は、現在でも十分子供達を引きつけるし興味も持ちます。
▲挿絵:『四時交加・法師絵解』北尾重政画 国立国会図書館蔵
間瀬垣(ませがき)売り
杉の青葉を竹に編付つけて垣の如く作り、 苧殻(おがら)をもって粧(よそ)おいました。これは魂棚(たまたな)を囲う欄(らん)に用(もち)いました。また菰(まこも)というは、菰を粗末に編みたる筵(むしろ)で 魂棚の敷物としました。
『まこもや まこもや まこもや~ませがきや ませがきや」の声と共に七月八・九日頃より売りに来ました.
蘭盆会(うらぼんえ)
先祖の霊をお迎えして祀(まつ)り、送り出す行事です。
お迎え火は(七月) 十三日の日暮に苧殻(おがら)に火を点け、 先祖の霊を迎え入れるのは今と同じです。江戸時代、大名や高級旗本などは門を開け、玄関には麻上下を着した家来を控えさせて、生きている人を迎えるようであったといいます。
町家は前もって家内を清め武家と同じく魂棚(たまだな)を構へ、番頭手代小僧ある家にては、皆店に居並び家族そろい戸外に芋殻を積み火を移すや鉦打ち鳴らし称名を唱へ火焚き移るや霊魂を棚の許へ案内しました。
期間中、布施僧が念仏を唱えて町を往来するなどして、町は大変にぎやかでした。盂蘭盆会が終わる十六日の日暮、送り火を焚いて精霊をあの世にお返しいたします。
藪入(やぶいり)
商家で働く人々にとって、正月と七月十六日十七日は許されて親もとに行く休日で、これを藪入りとか宿下がりともいい、心おきなく芝居見物や参詣などに出かけることができる日です。
閻魔賽日(えんまさいじつ)
七月十六日は閻魔賽日(えんまさいじつ)といって閻魔の休日です。
その日は閻魔大王を祀る寺では、縁日として賑わいました。
藪入(やぶいり)で奉公先から休みをもらった人々も、閻魔詣でに繰り出したのです。
▲挿絵:『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵
佃踊り
八月十三日から十五日にかけて毎夜、佃島から念仏踊りの一行が京橋から日本橋へかけて繰り出しました。
「佃島」と書いた提灯を点し、鉦を打ち鳴らし『やとせえやとせえ』の囃しと共に、
念仏に節をつけて唱え歩きました。呼び寄せる家が称名を唱え鉦を打ち鳴らし踊りました。
これを世に「佃踊り」と呼び、界隈の名物です。
八幡宮祭り
隅田川の東側の本所や深川は、江戸時代に人口がどんどん増えた地域です。
住む人が増えると、寺社も増えるということになります。
また、江戸市中の大火のために、移転してくるケースも多くありました。
八月十四日は八幡様の祭で、深川の富ヶ岡八幡宮は山車などが出てとりわけ賑わいました。
赤坂山王神社の山王祭、神田明神社の神田祭とならび、江戸三大祭に数えられています。
十五夜
八月十五日は望月(=十五夜)です。団子を作り、柿、栗、芋、枝豆、葡萄
を添えて堆く三方に盛り上げました。脇には芒や秋草を花入れに挿し、座敷の縁先
や屋根の物干し台へ飾りました。
衣替え(ころもがえ)
九月は衣替えの季節であり、 朔日(1日)には袷小袖を、九日からは綿入小袖を着ました。
最近は温暖化の所為もあるが、 九月はまだ暑いです。 袷や綿入れを着ると云われ
てもピンと来ません。新旧の暦に最大約二ヶ月ズレがあるとしても、今は十一月始めには
コートは着ない人が多いと思います。
九月節句
五節句最後の重陽(ちょうよう=九日)の節句も九月です。別名菊の節句と呼ばれたように、菊を愛でました。
▲挿絵:『江戸年中風俗之絵・七夕』 橋本養邦画 国立国会図書館蔵
九月菊見
菊人形は、 享保年間(1716~1736) に染井の植木職人が花壇菊を作ったことから始まるとされます。
これに造形を加えたのが菊細工であり、文化五年頃麻布狸穴で帆掛船や丹頂鶴が作られたのを嚆矢とします。
この技術が後に染井へ戻って改良されたのが菊人形です。
▲挿絵:『千代田の大奥・観菊』楊洲周延絵画 国立国会図書館蔵
神田明神祭礼
九月十五日、隔年の大祭は山王祭とともに将軍家ご城中へ神輿ねりもの
はいれば江戸両祭りとて江戸っ子の勇める御用祭りといいます。
▲挿絵:『神田明神祭禮繪卷』歌川広重画 国立国会図書館蔵
【参考資料】
『東都?事記』『江戸府内 絵本風俗往来』『嬉遊笑覧』『守貞謾稿』
『国立国会図書館』『東京国立博物館』『ライデン国立民族学博物館』『大道芸通信』