寄席で落語をやらない落語家がときどきいる。
いや落語なのかもしれない。落語の定義ってあるのか。
例によって調べてみた。ウィキペディアにはこうある。
「落語(らくご)は、江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。〜中略〜衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、身振りと語りのみで物語を進めてゆく独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。以下略」。
やっぱり落語をやらない落語家がいる。
例えば川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師匠。名前からしておかしいこの師匠、ソンブレロをかぶってギターを片手に始めから終わりまで、軍歌やらマラゲーニャやら、とにかく歌いまくる。これは「衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく」という先の定義に明らかに反している。
だが実際には「まじめにやれ」とか「ちゃんと落語をやれ」なんてことを言う客は誰もいない。たいてい「川柳師匠は仕方ない」で終わりである。いやそれすら聞かない。逆にこんなことを問題にすること自体が野暮と言われる可能性すらある。
なぜか。
それは抜群におもしろいからである。話がおもしろいのはもちろんだが、ギターと歌もプロ並みにうまいから、もう文句をつけようがないのである。
落語をやらない落語家は他にもいる。共通するのはみなさん高齢で大御所である。
川柳師匠は1931年生まれだから今年83歳。昭和ヒットメドレーをただひたすら歌い続けて高座をもたせる鈴々舎馬風落語協会前会長は、1939年生まれで今年75歳になる。リサイタルを開催している柳家小三治師匠も同じ75歳。みなさん、唄っているときの表情は、安らかでいかにも楽しそうである。
かつて新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎は「落語家にとって寄席は修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされる」と言ったが、70〜80歳になっても修業しています、と言われると、客として少々窮屈に感じないでもない。それより、「師匠、長い間修業お疲れ様でした。これからはお客さんが喜んでくれるなら、落語じゃなくてもけっこうです」、「そうか、やっと修業も終わったか、よし今日から唄いまくってやるぞ」っていうようなのりの方が、客の側からしても安心して楽しめるような気がする。
そう思って改めて眺めてみると、川柳師匠や馬風師匠の唄声には、気負いもなければ衒い(てらい)もない。見ようによっては「修行は終わった、万歳!」と言っているかのようにさえ見えてくる。ただし小三治師匠は違う。唄っているときでさえ修行感が漂う。だからこそ寄席ではなくリサイタルなのかもしれない。本気度はこちらの方が高い?
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