かつて銀座に「みずの」という小さな小料理屋があった。
女将は郡上八幡*1(現在の郡上市)出身だった。このお店の常連に永六輔さんのマネージャーがいた。そのご縁で永六輔さんが郡上八幡を訪れたのが、昭和49年(1974年)の8月12日のことである。郡上八幡は「郡上踊り」*2で知られていた。永さんが訪れたのは、郡上踊りが最高潮となる徹夜踊り(8月13〜16日)の前日のことだった。
すっかり郡上八幡を気に入った永さんは、自らが創設メンバーだった「やなぎ句会」*3を、郡上八幡で開催することにした。思ってもみなかった永さんの提案に地元の人々は驚き、大歓びしたに違いない。しかし、驚きと喜びはこれで終わらなかった。せっかく集まるのだから寄席もやろうということになったのである。こうして、郡上八幡大寄席*4は始まった。「郡上八幡大寄席」は毎年開催され32年間も続くのである。
第一回の郡上八幡大寄席から欠かさず出演し続けていたのが、昨年惜しまれながら亡くなった柳家小三治師匠である。永さん、そして親友の入船亭扇橋師匠*5とともに、初夏の郡上八幡を訪れるのが恒例になった。若いころはツーリングも兼ねて東京からバイクを飛ばして郡上八幡入りしたそうだ。(詳細は、月刊誌「ユリイカ」*6の2022年1月号⦅特集:柳家小三治⦆に掲載されている古池五十鈴さん⦅郡上八幡の老舗喫茶室「門」*7の主人⦆の寄稿と、喫茶室「門」のHPに詳しいので、興味のある方はぜひご一読ください)。
記念すべき第一回郡上八幡大寄席の高座には、関東から小三治師匠と入船亭扇橋師匠、関西からは桂米朝*8師匠が登壇し、そこに永さんと小沢昭一さん*9が加わる超豪華布陣であった。後に人間国宝に認定されるふたりの名人が、同じ高座にそろいぶみするわけで、これほど贅沢なことはない。
超一流の噺家による良質の笑いに対し、聴衆もよく反応した。後に、小三治師匠も聴衆の感度のよさが心地よかったと述懐している。これ以上ない豪華布陣による超一流の話芸は、町民のセンスを否が応でも向上させた。郡上八幡大寄席は、聴衆にとっては笑いの感覚を磨く絶好の機会となった。
ユーチューブで視ればいいじゃないか、と言われそうである。
しかし寄席には、ユーチューブでは表現できない人間的な魅力がつまっている。そこには修正やカットのきかない、素のままの噺家と聴衆がいる。聴衆は目の前にいる噺家を視て、その印象を新たにするのである。
「テレビやインターネットでしか見たことがなかったけど、本当はこうゆう人だったのか」、「この人は信頼できそうだ」、「この人はいい人なんじゃないか」、あるいは「いい人だと思ったけど意外に意地悪そうだ」、「偉そうで何だか感じ悪い」、と言う具合に。
ユーチューブやテレビでは感じ取ることができない、噺家の人間性を肌で感じられるところに地方寄席の魅力がある。
郡上八幡大寄席は、郡上八幡在住の俳優近藤正臣さん*10や、桂米朝師匠の実子である桂米團治*11さんたちの尽力で、「郡上八幡上方落語の会」*12として今も続いている。(現在は新型コロナの影響で休会中)
永さんの蒔いた種は、地元の人たちによって大切に育てられ、今も毎年花を咲かせ続けている。 了
*1 郡上八幡(ぐじょうはちまん)八幡町(はちまんちょう)は、かつて岐阜県郡上郡にあった町である。2004年(平成16年)3月1日に郡上郡の7町村が合併して郡上市が発足し、八幡町は廃止された。郡上八幡(ぐじょうはちまん)と呼ばれることが多い。古くから郡上郡の政治・商業などの中心地として栄え、郡上市となってからは郡上市役所や岐阜県の出先機関が置かれている(Wikipediaより)。
*2 郡上踊り(ぐじょうおどり)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられる(Wikipediaより)。
*3 やなぎ句会1969年1月5日、東京都新宿区の鮨屋「銀八」で「やなぎ句会」の名で結成。同年1月末、やなぎ句会の影響で、雑誌『話の特集』の関係者が「話の特集句会」を開始。永六輔、小沢昭一と、書記の女性は、やなぎ句会と共通していた。のち神吉拓郎、加藤武が加わり12人となった。1974年に「東京やなぎ句会」に改称。細かい会則(規則)があり、欠席の場合は必ず未婚女性を代理で出席させることや、句友の女性に手を出した人は即時除名するなどがある。毎月17日に定例句会を開催し、俳句の作品発表のほか、俳句とは全く関係ない話などで盛り上がるという。同人の多くが亡くなり、残るのが矢野誠一のみになってしまったため、山下かおる(1997年より書記)、小林聡美、倉野章子、中村梅花を加入させて、句会を続けている。創設メンバー9代目入船亭扇橋(宗匠、俳号は光石)永六輔(俳号は並木橋)小沢昭一(俳号は変哲)江國滋(俳号は滋酔郎)3代目桂米朝(俳号は八十八)大西信行(俳号は獏十)10代目柳家小三治(俳号は土茶)矢野誠一(俳号は徳三郎)三田純市(俳号は頓道)永井啓夫(俳号は余沙)。のちに参加したメンバーは、神吉拓郎(俳号は尊鬼のち拓郎)加藤武(俳号は阿吽)山下かおる(小三治のマネージャー)小林聡美、倉野章子、4代目中村梅花(Wikipediaより)。
*4 郡上八幡大寄席永六輔さんの提唱で1974年から2004年まで、岐阜県郡上郡八幡町(郡上八幡 現在は郡上市八幡町)の安養寺で、毎年6月に開催された寄席。
桂米朝や柳家小三治、入船亭扇橋などの人気落語家が毎年登場した。噂を聞いて遠方からも落語ファンが集まるようになり、来場者は500人を超えることもあった。(喫茶室「門」のHPより mon.pupu.jp/oyose.html)
*5 入船亭扇橋(九代目)(いりふねてい せんきょう、1931年5月29日 - 2015年7月10日)は、東京都青梅市出身の落語家。本名∶橋本 光永。出囃子は『俄獅子』。落語家の名跡。九代目の孫弟子にあたる入船亭小辰が、2022年9月の真打昇進に伴い十代目を襲名予定。 初代から七代目まで船遊亭扇橋と名乗っており、系統から代々「音曲噺」「都々逸」を得意としていた。八代目から系統が変わり亭号も入船亭とした。初代扇橋を祖とする一門は扇派と呼ばれ、春風亭や柳家などのいわゆる柳派もこの一門から派生している(Wikipediaより)。
*6 ユリイカ(Eureka)は、青土社から刊行されている月刊誌である。詩および批評を中心に文学、思想などを広く扱う芸術総合誌である。なおユリイカとは「見つけた」を意味する「Eureka」から来ている(Wikipediaより)。
*7 喫茶室 門(もん)郡上八幡で二番目にできた喫茶店。郡上八幡在住文化人のたまり場だった。郡上八幡 喫茶「門」 (pupu.jp)
*8 桂米朝(三代目)(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - 2015年(平成27年)3月19日)は、落語家。本名∶中川 清。出囃子∶『三下り鞨鼓』→『都囃子』。俳号は「八十八(やそはち)」。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「人間国宝」の認定、「文化勲章」を受勲した。旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学の非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し、同町の発展や景観維持などにも貢献していた(Wikipediaより)
*9 小沢昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本の俳優、タレント、俳人、エッセイスト、芸能研究者。放送大学客員教授、日本新劇俳優協会会長、劇団「しゃぼん玉座」主宰、見世物学会顧問を務めた。俳号は小沢 変哲(Wikipediaより)。
*10 近藤正臣(こんどう まさおみ、1942年〈昭和17年〉2月15日 - )は、日本の男性俳優。本名は 川口 正臣(かわぐち まさおみ)。2017年から郡上八幡に在住。
*11 桂米團治(かつら よねだんじ)は、上方落語の名跡。米団治とも表記される。現在は米朝一門(米朝事務所)の事実上の止め名。なお、4代目の弟子である3代目桂米朝は5代目を継がず、50年以上途絶えていたのを4代目の孫弟子に当たる3代目桂小米朝(3代目桂米朝の弟子、実子)が継いだ(Wikipediaより)。
*12 郡上八幡上方落語の会 郡上八幡大寄席に縁の深い桂米朝門下が中心になって2009年から毎年開催されたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、2020年から休会となっている(画像は2016年第7回のプログラム)
都内寄席ガイド
鈴本演芸場(上野)http://www.rakugo.or.jp/
浅草演芸ホール(浅草)http://www.asakusaengei.com/
新宿末廣亭(新宿三丁目)http://www.suehirotei.com/
池袋演芸場(池袋)http://www.ike-en.com/
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