��.情炎お七
��-3.お七の恋
その間、お七の左門への想いは募るばかり。母親の目を盗んでは、お七は圓乗寺に走るのであったが、愛しい左門には会えたり、会えなかったり。会えなかったときは恋の炎は燃え上がり、会えたとしても逢瀬の時は短い。恋は盲目というが、もはやお七の頭の中は左門しかなかった。ずっとずっと抱きしめられていたい、いえ一緒にいるだけでいい。お七は左門に抱き締められたときの至福感が忘れられない。
夢中になっているお七を見ていたお松も、さすがに困ってしまった。何かあったら、旦那様や女将さんに叱られるのは私。「お嬢様、あんまり圓乗寺ばかり通っていますと、女将さんに見つかります。そのとき叱られるのは私ですから、ほどほどにしてくださいよ」。
しかし「叱られるのは私」といった台詞では効果はない。
「いやよ。あの方とお会いできないくらいなら、死んだ方がましだわ。」
「そんなことをおっしゃっても･･････。あの火事のときのようにいつもご一緒というわけにはいきませんよ」。不用意な言葉だった。
「そうよ、そうだわ。もう一度火事が起きたら圓乗寺に避難。そしたらいつでもあの方と会えるのよ」と思い始めてしまった。
そんなときだった。一人の若者がお七を訪ねて来た。男は「圓乗寺で世話になっている湯灌場買の吉三だ」と名乗った。
湯灌とは納棺の前に遺体に沐浴させることだが、地主や家持でない者は民家での湯灌は禁じられていた。そのため、そういう者のために寺の一隅の小屋を湯灌場として当てていたが、その面倒をみる者を湯灌場買といった。だがお七は「圓乗寺」という言葉は耳に入っても、「湯灌場買」という言葉は聞こえず、吉三が何者かということは全く気にもとめなかった。ましてや、この男が圓乗寺の一室でお七と左門がこっそり入っていくところを見ていた男とは思いもしなかった。
「では、左門様が･･･」
「そうだ。左門どのから、お七どのが息災であるか見て来いと頼まれてな」
「左門様は」
「ああ、会いたがっておる」吉三はそれだけ言うと、あっさり姿を消した。
「あッ」お七は御預をされた子犬のようなものである。左門への熱い思いはますます燃え上がる。
二三日して、吉三がまた顔を出す。
今日はお松もお七の隣にいた。お松は吉三をしげじげと見た。
やさ男であったが、どこか陰がある。
「左門様は?」お七は、何が何でも左門様である。
吉三は首を振りながら「いや、ここんところ見かけねえから知らねえナ」とすげない。おまけに「いったい、どうしたんだろう」なんていう台詞まで付け加える。
お七は悲鳴にちかい言葉を発する。
吉三は「文でも書きな、届けてやるぜ」と言って手を出す。
お七は部屋へ引き返し、文を書いた。
お松が追っかけてくる。「お嬢さま。あの吉三はやくざでございますよ。まあ、お駄賃をよこせなんて･･･」
お松は嫌な予感がしてしかたがない。
次の日、お松は圓乗寺まで出かけて行った。吉三の正体を聞き出そうと、厨房の女たちや小坊主たちにそれとなく聞きまわった。あまりはっきりしないが、小銭を稼いじゃ、博打で遊んでるらしい。湯島天神の裏門前の長屋に住んでいるとも聞いたので、翌日はそっちへも足をのばしたが、どうにも調べようがない。とにかく、お松はお七に、聞いたことだけを耳に入れたが、お七はといえば直接、左門に関係することではないことなので、気にもとめない。
だが、吉三という男は、実はお松の予感を上回る悪者であった。
小堀左門の兄である弥平治には光という妾がいた。光は日雇取吉兵衛という口入屋の娘であったが、やくざなところがあった。そんな光だから、言うことをきかなかった小堀家の女中お杉を叩きのめしたのだが、やり過ぎてお杉は死んでしまった。光には、弁州というこれまたやくざ坊主の弟がいた。光は弟に死体の後始末を頼んだ。
やくざ坊主はやくざな湯灌場買を匂いで嗅ぎつけて、やって来た。そして吉三に頼んだ。「死体をこっそり始末してくれ」と。
「死人をこっそり」なんていうのは必ず裏があるもんだ。それが金になるのさ、とばかりに吉三は引き受けた。そして弁州と付き合っているうちに、すぐに分かった。旗本小堀家の乗っ取りは弥平治ではなくて光がやらしたのだということが。だが、この話は大き過ぎる、事と次第によっちゃあ、お偉い人に訴えなければならない。これはじっくり作戦を練るとして、その前にやることがあると言いつつ、お杉殺しを脅して、光から小金をせしめた。
光は怒った。弟に吉三を殺せと命じた。
弁州は子供のころから、この姉ゴに逆らえなかったらしい。その日から吉三の隙を狙い始めた。
しかし、吉三はやさ男だったが、悪賢くて喧嘩上手だった。木々繁る夜の墓地に弁州を誘い出し、背後から相口で突き、倒れ込んだところを馬乗りになって心臓に止めを刺した。それから穴の中に死体を投げ込み、泥をかぶせた。このために墓地を選んでいたのである。
光は一か月しても弟が戻って来ない様子から、自分も殺されるとみて、小堀家から姿を消した。
光が行方をくらましたことに、小堀弥平治は何が起きたのかまったく分からずただ茫然としていた。
吉三といえば、「畜生、金ヅルが逃げやがった」と悔しがった。
吉三は、またぞろお七のところへ顔を出して、腹立ちまぎれに、こう言った。「お七さん、家さえ焼ければ、また圓乗寺へ行かれるんじゃ、ごぜえせんか」
「そうだ」とお七は思った。そして、ある夜のこと、新築になったばかりの自宅の庭に出た。そして裏木戸からそっと出て板塀の所にしゃがみ込んだ。手には火打石と藁とボロ切を持っている。カチッ、カチッ！ 風が強い。だからか、なかなか火は点いてくれない。お七は諦めた。
そこへお松が飛んできた。「お嬢さま、ナ、何ということを！」お松は悲鳴を上げながら、お七の手を引っ張って、裏木戸から庭に入れ、もう一度外に出て、火打石と藁とボロ切を拾って転がるように戻って来た。そして再び叫ぶようにして言った。「お嬢さま、何ということを･･････」。お松の目には涙が流れていた。
そこへ「騒々しい。夜中に何事ですか」と母親が駆けつける。
お松は経緯を白状するしかなかった。
お春はうろたえてお七を見た。夫の市左衛門はまだ戻っていなかった。
「点けようとしただけよ。火は点けていないわ。」言い捨てると、お七は自分の部屋に閉じ籠ってしまった。
お春は迷った。今、娘のところへ行って、事情を聞いてやるべきか、それとも暫くそっとしてやるべきか。躊躇しているときに夫が戻ってきた。お春は、まだ夫に話すべきときではないと思った。だからその日は何事もなかったかのように夜が更けていった。
翌日から、お松の視線が鋭かった。
お七は腹が立った。「お松は、母さんに監視するように云われ、裏切ったにちがいない。」お七に意地が出てきた。「絶対、あの方にお会いするのだ！」
数日後、お七はお松の目を盗んで、家の板塀の影にしゃがみ込んだ。手にはまた火打石と藁とボロ切を持っている。カチッ、カチッ、カチッ、カチッ！ 何度が試みるうちに火が点いた。お七はその火を数本の藁束に移して、自宅に投げ入れた。火の束は父親の部屋の方に飛んでいったが、お七は背を向けた。むろん背中で火を感じたが、振り返らなかった。お七は走った。むろん圓乗寺の左門の元へだ。「左門さま、左門さま」と呟きながら、お七は泣いていた。これで左門さまに会えると確信しながらも、涙が止まらない。もしかしたら、もしかしたらお七は心の奥で自分が破滅への道を突っ走っていることを感じ取っていたのかもしれない。そういう自分を制御できない歯痒いさも分かっていたのかもしれない。
お七は圓乗寺に着いた。そして左門を探し回った。いた。「左門さま！」と叫び、左門の膝に突っ伏した。
「･･････。」
お七は夢中になって事情を左門に話した。
「･･････。」
左門は「火付けはご法度」とは言わなかった。むしろ女がこんなに可愛いものかと思って、お七を抱きしめた。
何時経っただろうか。
圓乗寺は南町奉行所の者によって囲まれて、二人は引き離され、お七は捕縛された。
市左衛門一家は上へ下への大騒ぎとなった。そして何とか罪にならないようにと八方手を廻してみたが、火付けだけは何とも難しかった。
さっそく、鍛冶橋の南町八代目の奉行、甲斐庄正親による取り調べが始まったが、見ればお七はまだ16歳(満年齢14歳)。ちょっと気が強そうには見えるが、なかなかの美人。甲斐庄は日ごろの極悪人相手のときとはいささか勝手が違った。何とか命だけでも助けてやらねばと思い、あれやこれやと考えてみた。そうだ。15歳以下の者は死罪にはならないという定めがあるではないか。甲斐庄これを適用しようとした。
評定の場において、甲斐庄は「お七、お前の歳は15歳であろう」と謎を掛け
た。対して、お七は正直に「16歳です」と答える。
奉行はお七が自分の意図を理解できてないのではと思い、｢イヤ、15にちが
いなかろう｣と重ねて問いただした。
それでもお七は正直に自分の年齢を口にするのであった。
奉行所の者も、「お奉行様のお心遣いがわからぬのか」と気を揉むが、本人が16歳だと申すのであれば、やむを得ない。
甲斐庄は目を閉じて、定法どおりの火炙りの刑の判決を下した。
お七の父親市左衛門は大火傷を負って寝ていた。
枕元ではお春が泣いている。
「泣くな、お春。左門という男のことは憎いが、それでもお七は好きな男のために、精一杯生きたんだ。いいじゃないか、誰かに迷惑をかけたというわけじゃなし。」
「お前さん･･･。」お春は主人が娘を許してくれているとは思いもしなかった。
「何を言っている。父親が子の犠牲になるのは当然だ。おれは何とも思っちゃいねえ。それよりか、明日にでもお役人さまの所に行って、お七が望むものがあったら叶わせてほしいとお願いしてくるんだ。」
翌朝、お春は牢役人に頼んで、お七に会わせてもらい、「何か欲しいものがあったら」と尋ねた。
お七は「お饅頭を食べたい」と言った。
お饅頭というのは、あのときの『壺屋』の饅頭のことである。お春は外に出たとたん、涙があふれ出た。健気にも、お七は左門と最初に会ったときのことを大事にしているのだ。「あああ」お春は、堪えきれず道端にしゃがみこみ、いつまでも嗚咽するのだった。
数日後、お七は市中を引き回されて鈴ヶ森へと連行された。刑場に着くと非人が近づいて来てお七を馬から下し、竹枠が組んである柱に縄で縛った。足元には薪が積んであった。竹枠の周りには萱が顔の高さまで積み上げられている。
やがて検視役与力が火を命じた。非人たちは初めは火勢を消さないように筵で仰いでいたが、そのうちに海からの強風に炎が舞い上った。
お七は地獄の苦しみの中、獣のように吠えまくり、そして気を失った。
火炙りの刑を見に来た者のうち何人かが坐り込んでいた。気持悪くなったり、気を失ったりしていたのである。
その一人に、あの左門がいた。お七の最期を見届けるために刑場にやってきたものの、お七の絶叫が耳に入ったころ、とうとう気が遠くなってしまった。
気づいたとき左門は目黒の明王院という寺にいた。ここの住職に助けられたのである。一旦、左門は御礼を述べて明王院を出た。しかし、翌日戻ってきて、「出家をしたい」と願い出た。お七の最期をみた左門は、とても普通の生活に戻れる気がしなかったのである。
明王院の住職は入門を許さない人としてその世界では知られていた。しかし、そんな人が左門の出家を承諾した。それはやはり刑場での出会いにタダならぬものを察知したからであろう。左門は住職に何も話さなかったし、住職も左門に何も問わなかった。
出家して西運と称した左門は、1万日の念仏行を決意し、目黒から浅草までの40キロを27年と5ケ月、念仏を唱えながら往復した。
女中のお松は、お七が処刑された日にお暇を願い出た。
大火傷をしていた市左衛門はお七より先に、息を引き取った。
お春は、四十九日を済ませてから、市左衛門の故郷の七尾に向かった。「おれの骨は七尾に埋めてくれ」という市左衛門の遺言を守ってのことだった。
市左衛門は言った。「七尾に戻ってから、もう一度出直すのだ。お春もお七も一緒にな。おれは地獄へ行ったって、あきらめねえ。あきらめるもんか。」
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