��.情炎お七
��-2.八百屋市左衛門
市左衛門は大得意先の前田家が無事であることは噂で耳にしていたが、それでも火事見舞いに行かなければと思った。そして翌日からせっせと、前田家はじめお得意様のお見舞いに出かけた。
市左衛門の父は、元は前田家に仕える侍であった。とはいっても、金沢本藩ではなく、能登七尾城の前田利政に仕えた足軽であった。それが元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となったとき、父は刀を捨てた。父は一途な男であった。「金沢本藩か、それとも他の道か」というときに「二君に仕えることを良しとしなかった」のである。息子の市左衛門は若いころの名を山瀬三郎兵衛といった。父に伴われて江戸にやって来て、加賀屋敷の前に敷地を持っている河内屋という麪粉業から、その土地を借りて加賀藩など大名屋敷を得意先とする八百屋を営むようになって、今に続く。
さて、やがて市左衛門の新居は再建され、一家は一時的に避難していた圓乗寺を引き払った。
お松は言った。「お嬢様、あのお方にお会いしなくともいいのですか。」
「そうだ、もうお会いできなくなるかもしれない。」お七は寺中を小走りして恋しい人を探し廻った。
すると、左門はいた。巻物を手に住職の室から出てくるところであった。
「左門様」お七は呼び止めて、大きな声で、熱く云った。「お会いしとうござ
いました。」
若い女からいわれた若い男はうろたえた。でも、その目はお七に向けたままであった。左門はお七がお松に託した手紙を読んでいた。「お会いしたうございます。」たったそれだけの短い文ではあったが、お七はこの避難所でも噂の美人であったから、悪い気はしなかった。しかも左門は愚かではなかった。直感的にお七の性格を理解し、お七の方からより積極的に接触してくるであろうことを何となく予感していた。しかしながら若い左門は、まだ生だった。イザ面と向って「お会いしとうございました」と告白されれば、目が眩む。左門は自らを落ち着かせ、先に立って歩き始めた。歩きながら、「どうしよう」と悩んだ。お七が後からついて来るのが、背中で分かる。そのとき、目の先に寺の書庫にしている小さい室が見えた。その室は板戸であった。左門は戸を開けて入った。
お七も入ってきて、自分で戸を閉めた。「左門様」。閉めるや、お七は左門の胸に飛び込んだ。寺を去らなければならない、という状況の変化が大旦にしたのである。
このとき二人は気付かなかったが、もう一人の若者が室に入る左門とお七をじっと見ているのであった。
左門は押されながらも、お七の身体を抱きしめた。お七の身体は柔らかかった。二人は一時、夢中になって抱き合い、唇を合わせた。
しばらくして、左門はお七の耳元で言った。「お七どののお父上には恩義がございます。」
「エッ」お七は弾けるように左門から離れた。「どういうことでございますか、左門様。」
左門はゆっくりと身の上話を始めた。
こんなとき、父の名は聞きたくなかったが、お七は左門の身の上すべてを知りたかった。
「私は神田お玉ケ池の小堀源十郎と申す旗本の倅でございますが、父が老いてからの子でございます。父は子ができぬものと思い、家が絶えぬようにと弥平治という遠縁の者を養子として迎えていたのでございます。表向きは私の兄にあたります。その兄は父が亡くなりますと、私を座敷牢に閉じ込めて、私は精神を病んでるとお役人に届け、父の跡を継いだのです」
「まっ、何と」お七にとってこれ以上の悲運の若者はいなかった。お七は左門の手を取って涙を流した。
「幸い、父に仕えていた内田甚九郎と申します用人と女中のお杉が義兄の目を盗んで私を座敷牢から出してくれたのです。」
「よかった」とお七はわがことのように喜ぶ。
「その前に甚九郎は、かねてから世話になっていたお七どの父上に相談しておりました。私を保護してくれる者はいないかと。お父上は旦那寺の圓乗寺様にお願いしてみようとおっしゃっていただき、そのお蔭でこうして私は今、お七どのと出会うことができたのです」
「お蔭で、お七どのと出会うことができた」― この運命的な出会いの言葉に、「ああ」―若いお七は酔ったように感動するのであった。
十日後、市左衛門一家は新居へ移った。だが、大火災の前まで仕入れていた駒込辻の土物店ではなかなか市が立たなかった。
【駒込辻の土物店】
この土物店は、もともと天栄寺境内の梍の樹の下で近くの百姓たちが近辺で採れた小石川の大根や蒟蒻、巣鴨の蕪や滝野川の午旁、谷中の生姜、早稲田の茗荷などの土物(根菜物)を交換していた。それが少しずつ駒込の茄子、雑司ヶ谷南瓜などの果菜類や三河島菜などの葉菜類も集まってくるようになり、今では天栄寺の門前から少し東側にある高林寺の門前を中心にして浅嘉町一帯にかけて土物の問屋が並び、幕府の御用市場にもなっていたのである。
【天栄寺境内の梍の樹】
しかし、市が立たないでは商売にならない。市左衛門は、別の所に蓄えていた副食物、乾物、海藻、木の実類が無事だったので、当面それで御用を賄ったり、偶には千住まで仕入れに行ったりして、日常が留守がちになっていた。
若者にとって父親が留守なのは何かと都合がよい。
帰宅した父が浅草の「正直蕎麦」の評判がいいとか、何処其処では何の商売がうまくいっているとか、あるいは何とかという米問屋の若旦那が遊女と一緒に両国橋から身を投げ心中したとかを母親に言っているのが聞こえてくることもあったが、ほとんど父と娘は口を交わす機会がなかった。
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