☆山岡鐡舟(1836〜1888)
山岡鐡太郎。本所に生まれる。父小野朝右衛門高、母塚原磯(先祖に塚原ト伝)。幼少から神蔭流、北辰一刀流、浅利義明の門下となり、維新後は無刀流の開祖となる。
幕臣として清河八郎と共に浪士隊を結成。江戸無血開城に深く関与。明治政府では静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任。
1882年(明治15年)、16代徳川家達は無血開城の功として鐡舟に名刀「武蔵正宗」を贈与した。
��-3.剣の道
「書というより、剣の道ではないか、三人に共通しているのは。剣が、武が己を知らしめているのではないか。」
「はあ。」
「というのも、わしには悟るときがあった。あれは明治十三年(1880)三月三十日のことじゃった。丁度わしは天龍寺の滴水和尚(1822〜99)から宿題をもろうておって、そのことをずっと考えておった。そんな折、かつての剣の弟子の平沼専蔵(1804〜1913)という者が訪ねて来おった。弟子というてもわしより二十は歳上で、貿易商として成功しておる男じゃった。わしは懐かしさもあってソ奴といろいろと話したのじゃ。そのとき、平沼は『商売、取引は剣道と同じだ』と言うたのじゃ。『木刀を銭に持ちかえただけで、己と相手がいるというところは剣道も同じ、その両者の取引はまさに勝負。ところが、勝ちたい、負けたくない、つまり儲けたい、損したくないと思う気持は当然わいてくるが、それが迷いになれば負け。結局は無の心で臨むのです』、と平沼はわしに言いおった。わしは雷に打たれたような思いがした。何事も本質は一つ、剣の道に通じる、と。これが悟りかどうかは分からぬが。ともかくそう思ったときからわしの筆意に変化が生じた。」
「はあ。」
「海舟先生にそのことを言うたら、村田小銃などという便利な武器が開発されるこのご時世に無の心を悟るとは、お主は偉い、と言われたわい。」
「は。」
「わしは、わしは･･････」と鐡舟は絶句して、また酒を呑みほした。
驚いた大坂屋が鐡舟の顔を見ると、鐡舟は涙を流している。
「そうじゃ。この村田小銃の時代に、刀を唯一の武器と信じ、主君に仕える武士であらんとして、散った者たち。わしにはその気持がよう解る。銃の時代、つまり西洋科学の時代たがらこそ、これからは日本男児としての精神の武士道を創りあげなきゃならぬ。だから、わしはこれからも剣の道を行く。そういう思いでわしは『春風舘道場』を作った。」
「･･････。」天皇の侍従ともあろうお方がたかが街の蕎麦屋を相手に、本気で語られる。そんな鐡舟に、大坂屋は一言も発せない。
鐡舟は一人続ける。「そういうときの平沼と出会い。わしにとっては光じゃった。じゃがこの悟りはわし一人の呼吸じゃから、その悟ったところを言葉で表わすことは難しい。その人自身の心の鏡に写るとおりになすしかないと思うておる。わしは蕎麦は打たんが、蕎麦打ちもそういうところがあるのではないのか、と思う。」
「いや、手前どものはたかが蕎麦打ちでございますから。ただ麺棒を持つと不思議に蕎麦を打ちたくなるところはございまするな。」
「それじゃ。筆を持つと字を書きたくなる。刀を持つと戦いたくなる。とうぜん、上手く書きたい。相手に勝ちたい。蕎麦を上手に打ちたい、となる。しかしそれが迷いの元、己に負けてはいかん、道具に負けてはいかん、剣に負けてはいかん、と弟子の平沼から師のわしが教わったのじゃ。わははは。」
「先生、よく、分かりますよ。つくづく道具とは不思議なものですな。」
「であるのう。さあて、砂場の蕎麦を食うか。わしは砂場の汁が好きでの。」
「ありがとうございます。ところで、鐡舟先生。うかがいますところによりますと、先生は御維新の動乱で亡くなった方々のためにお寺をお建てになられたいとか」
「そうじゃ。国事に殉じた者たちは念ごろに弔うてやらねばならん。それは生き残った者の務めじゃ。」
「そうは思いましても、なかなかできんことでございますよ」
「いや、高岡の国泰寺の越叟師の勧めもあっての、谷中の三崎坂に全生庵という寺を創建しておるところじゃ。」
「はい。うかがっておりまする。もう2年も前から、荒れ地を拓き、さらにはお隣の土地もお買い求めになられておるのでございましょう。偉いことでございます。」
「おぬしは何でも知っておるの。」
「いや、こういう商いをやっておりますと、いろいろな話が耳に入ってくるのでございますよ。」
「そういうものか。三崎という所はの、鎌倉の建長寺を開山された蘭渓道隆師が、一時庵をむすばれた所だと聞いて、もうこの地でなくてはと心に決めたのじゃ。」
「はあ、さようでござんすか。そういうご縁が･･････。」
「うん。全生庵の名は道隆師のころの名じゃ。それを頂いた。そして御本尊は、江戸城の守本尊であった葵観音をお迎したいと思うておる。」
「さようでございますか、それはよござんす。先生、書の御礼としては、まことに些少でお恥ずかしい限りでございますが、お寺の建立の一部にお役立てていただけないでしょうか。」
「これは済まぬ、済まぬ。私は銭勘定が下手での、大工たちにだいぶ迷惑をかけているようじゃ。今日はありがたく頂戴しておこう。」
「何をおっしゃいます。私どもも先生のためになるのなら嬉しゅうござんすよ。」
「ありがたいことじゃ。さてと、蕎麦も食ったし、今日のところは、このあたりで失礼するかのう。」
鐡舟は大食漢である。蕎麦の一、二枚ぐらいあっという間に平らげるが、いつものことであった。
「ありがとうございます。わざわざお越しいただきまして。」
大坂屋は山岡を入口の外まで見送った。
【谷中 全生庵】
参考：山岡鉄舟『剣禅書』(徳間書店)、薄田泣菫著「滴水と峨山」「魚を食う人」 (『茶話』岩波文庫)、勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』(角川文庫)、海音寺潮五郎『江戸開城』(新潮文庫)、松本健一『幕末の三舟』(講談社)、「小川山岡鉄舟の会」事務局長 八木忠太郎氏のお話、「虎ノ門砂場」稲垣隆一氏のお話、
〔完〕
|
前のページ ��-2.三舟の書 |
コンテンツのトップ |
次のページ 別巻２：「鉄舟」を歩く |
江戸ことば 月ごよみ
