江戸時代、小石川伝通院は修道研学の僧が全国から集まる寺であった。
1618年(元和4年) 4月7日の夜のことである。伝通院の学寮主である極山和尚の夢枕に、若い僧が訪ねてきて「われは澤蔵司という者であるが、浄土の修学のために、明日当寺を訪ねる」と託して消えた。すると翌朝、夢に見た通りの顔立をした年のころ30歳くらいの僧が門を叩いたのである。
驚いた極山和尚が伝通院の山主である正誉廓山上人に報告したところ、上人も同じ夢を見たという。
ただちに、澤蔵司の入門は認められたが、果たせるかな澤蔵司はわずか三年で浄土の奥義を究めてしまった。
そうした元和6年5月7日の夜、再び澤蔵司は廓山上人と極山和尚の夢に現れ「もともと私は太田道灌が千代田城内に最初に祀った稲荷大明神である。今から元の神に戻るが、世話になったお礼に永く当山を守護したいので、速やかに一社を建立して稲荷大明神を祀ってほしい」と言って、暁の雲に消えた。
こうして建立されたのが「澤蔵司稲荷」の別当慈眼院である。
【澤蔵司稲荷】
ところで、伝通院17世住職に顕誉祐天という上人がいた。関係するお寺は目黒の祐天寺であるが、とにかくこの僧は呪文で狐憑き退治をすることで有名で、「狐の祐天」とも言われていたという。
筆者は、澤蔵司稲荷の説話もこの祐天上人のころにでき上ったのではないかと想っている。
さて時代は下って、伝通院の門前に蕎麦屋ができた。その店主は感心なことに、毎日「澤蔵司稲荷」へのお祈りを欠かさなかった。
そのうちに人々は「澤蔵司は蕎麦が大好きだ」「いや、お稲荷さんだから、天麩羅蕎麦が好物だ」「澤蔵司稲荷はご利益がある」などと噂するようになり、「澤蔵司は蕎麦稲荷だ」ということになった。
とうとう、1814年に釈敬順という人が『十方遊歴雑記』に「澤蔵司稲荷」を紹介したり、1827年ごろ「澤蔵司 天麩羅蕎麦が 御意に入り」という川柳が作られたり、1831年には近所に住んでいた滝沢馬琴が度々参詣するようになった。
今でも交差点の所に「萬盛」という蕎麦屋さんがあるが、そこのご店主は毎日欠かさず、その日にできた蕎麦を供えられるというから、偉い人だ。
☆おすすめのお蕎麦屋さん
・「ほしひかるの江戸東京蕎麦探訪」小石川編1〜4(GTF) ⇒「萬盛」「古式蕎麦」のご案内
http://www.gtf.tv/blog/users/gtf-staff5/?itemid=4719&blogid=113&catid=2140
☆さらにお調べになりたい方のために
・伝通院(文京区)、慈眼院(文京区)、祐天寺(目黒区)、弘経寺(水海道市)、浄泉寺(今市)、
・ほしひかる「蕎麦夜噺」第19夜 (『日本そば新聞』平成19年6.7月)
・江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)
(次回6日目は北千住の蕎麦閻魔へ出かけます。)
〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕
前のページ 《4日目 メッカ「蕎麦喰地蔵尊」》 |
コンテンツのトップ |
次のページ 《6日目 つゆに誘われ「蕎麦閻魔」》 |
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。