「蕎麦喰って 鐘の音を聞く 深大寺」― 南畝
粋な江戸人として知られる大田南畝も何度か食べたことのある、深大寺蕎麦は昔から有名であった。
そのきっかけをつくったのは、上野の東叡山寛永寺の公弁法親王(1669〜1716)であった。
寛永寺というのは、寛永年間に家康のブレーンといわれた天海僧上によって東の比叡山(⇒東叡山)として建立された寺である。いわば徳川政府の官営寺であるところから、第3世からは天皇の御子を迎えることになり、5世の公弁法親王も、後西天皇の第六皇子という高貴な人であった。その公弁法親王は、根岸の里の「こごめ大福」が好きだったり、奥多摩日原の木々で白箸を作らせたなど、食にまつわる伝説を多くもつ人だが、それだけ食通であったのかもしれない。
そんな法親王に、深大寺で産した蕎麦を献上したところ、「その風味は他の蕎麦と違って美味しかった」と他の人々に推薦、吹聴されたという。それから深大寺蕎麦の名が広まった、と日新舎友蕎子という蕎麦人が『蕎麦全書』という書物に書き残している。
それにしても、天皇家がお蕎麦を食されるのかとお思いだろうが、それがある。冷泉家為久(1686〜1741)という歌人は霊元上皇(1654〜1732)、つまり公弁法親王の祖父から蕎麦切を頂戴したときに「寄蕎麦切恋御歌」を献じたりしている。
公弁法親王が寛永寺5世として在職していたのは1690年〜1715年である。その間の深大寺住職はというと、示寂年から推測すれば、59世行雄、60世玄海、61世義観、62世周海、63世覚滇、64世亮賢、である。この六名のうちの誰かが「寛永寺5世の公弁法親王様に深大寺蕎麦を食べていただこう」と思いついたのであろうが、現段階では何世の住職だったかは、まだ特定できない。
それはともかく、現在の「深大寺蕎麦」から見れば、公弁法親王と当時の深大寺住職は大恩人ということになる。
そのことをよくお解りになっているのが、現在の88世住職と蕎麦屋「門前」のご店主だろう。お二人は仲間を誘って明治以来絶えていた深大寺蕎麦を復活させようと立ち上がり、毎年種を播いて、蕎麦を刈り取り、深大寺産の蕎麦粉を作っておられる。
公弁法親王が深大寺蕎麦を食されてから約300年、「武蔵野の水と緑と寺と蕎麦」が永久に続いてほしいと、境内に存す【蕎麦守観音】様に願うものである。
蕎麦守観音像
☆おすすめの浅草のお蕎麦屋さん
・「ほしひかるの江戸東京蕎麦探訪」深大寺編1〜4(GTF) ⇒「門前」「松葉茶屋」のご案内
http://www.gtf.tv/blog/users/gtf-staff5/?itemid=3373&blogid=113&catid=693
☆さらにお調べになりたい方のために
・日新舎友蕎子『蕎麦全書』(ハート出版)
・ほしひかる「蕎麦夜噺」第16夜(『日本そば新聞』平成19年3、4月)
・ほしひかるの蕎麦談義」第64、48、9、7話」 http://fv1.jp/blogcorner.html
・江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)
(次回3日目は千歳烏山の称往院へ出かけます。)
〔蕎麦エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕
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