酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになった。
年末の商家では、酉(とり)の市(いち)で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃える。どちらも年の瀬の風物詩として今も行われている。
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〇コラム 年の瀬の風物詩「酉の市」と「熊手」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=12
11月8日享保7年 (1722)出版物取り締まり令がでて、幕末まで出版取締令の基本法となる。
山東京伝は出版禁止令に抵触したかどで入牢させられ、町奉行から「手鎖」50日の刑を申し渡された。
京伝は錠前が掛けられた「手鎖」で手を束縛され、50日間自宅謹慎。錠前に封印紙が貼られ、5日ごとに与力・同心が封印を確認に来ていた・・・・・
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〇コラム 手鎖は「てじょう」と読む!
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11月23日宝永4年(1707)宝永の富士山大噴火。富士山が噴火し、
江戸市中に灰が雪のように降り積もった。その復旧・復活事業で活躍した人物伝。
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〇コラム 「富士山噴火の復興で、神様になった伊奈忠順」
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo39.pdf
安政江戸地震の後、江戸では多くのかわら版や浮世絵が発行さた。その中でも特に有名なのが「鯰絵(なまずえ)」。鯰絵は、地震を引き起こすと信じられていた鯰をテーマにした風刺画で、地震後の混乱や復興の様子を描いている。
*鯰絵
鯰絵は、地震を引き起こすとされた鯰を描いた浮世絵。地震後の混乱を風刺し、鯰が人々に懲らしめられる様子や、逆に鯰が復興の象徴として描かれることもありました。鯰絵は非常に人気があり、短期間で多くの種類が制作された。
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錦絵に見る安政大地震>消防防災博物館
https://www.bousaihaku.com/fireillustration/3957/
画像をみる> 「大鯰江戸の賑わい」絵 (東京大学地震研究所蔵)
ここでは、鯰がクジラのようにお金を噴き上げ、人々が喜んでいます。このように、地震直後の混乱の過程を経て、復興景気がひろまってくると、鯰は災厄の象徴から福をもたらす世直しの象徴へとかわっていった、と読み解くことができます。
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天保通宝を金座所属の江戸浅草橋場町の銭座で鋳造、発行した。
これは小判を模した楕円形で、中央に正方形の穴が開いている銅貨、
量目は5.5匁(20.6g)であった。明治維新後も通用し,明治4年(1871)には1枚で8厘の通用となったが,明治24年(1891)12月末日をもって通用停止となった。
関連情報はこちら
「19世紀前半 文政・天保の改鋳」>貨幣博物館
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern
画像をみる>「天保通宝」 重さは約20.6グラム、縦50mm、横30mm程度
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=793
2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju
富士講(ふじこう)は、江戸時代に広まった富士山信仰の一形態で、特に関東地方で盛んに行われた。
富士講の信者たちは、富士山を神聖な山として崇拝し、登山を通じて精神的な浄化や祈願を行なった。
富士山に登ることが難しい人々のために、各地に富士塚と呼ばれる人工の山が築かれ、 地元でも富士山信仰を実践できるようになった。
【江戸七富士】
品川富士(品川神社境内)
千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
下谷坂本富士(小野照崎神社境内)
江古田富士(茅原浅間神社境内)
十条富士(十条冨士神社境内)
音羽富士(護国寺境内)
高松富士(富士浅間神社境内)
これらの富士塚は、現在でも多くの人々に親しまれ、富士山信仰の文化が受け継がれている。
*富士講が江戸幕府からしばしば禁じられた理由として、檀家制度を乱す可能性の懸念や一揆や打ち壊し運動の温床になる危惧などあげられる。
関連コラムはこちら>
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜山開き
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
「朱引図」(しゅびきず)は、江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
朱引の範囲は、江戸城を中心に北は荒川、東は中川、西は神田上水、南は目黒川まで広がっていた。この範囲は「御府内」とも呼ばれ、この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれ、江戸の公式な市域として認識された。「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
関連コラムはこちら>
江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
・http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/
関東に入府した家康は、江戸を拠点とすることとし、 江戸城を築きながら、
戦いに備えたインフラを築造します・・・・・
関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 No30 戦いに備えた江戸の最初のインフラ
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf
江戸時代の橋梁は、 木製で老朽化が激しく (耐用年数、 約20年)、 さらに水害による流失があって、維持管理するのが大変でした。
両国橋は、架け替えの度に道幅を狭くしてコスト縮減され、また幕府が維持管理しない橋梁は、地元 (町方)に委譲されていきました。
関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 『永代橋にみる民間活力導入の惨劇』
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo46.pdf