落語に出てくる大家さんは裏長屋の大家で、「大家と言えば親も同然、店子(たなこ)と言えば子も同然」というのが決まりゼリフでもある。
『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の主人公弥次さん・喜多さんが住んでいたような最下層に属する長屋の大家。
大家といっても長屋を所有しているオーナー大家は珍しく、長屋を所有しているオーナーから委託された管理人といったケースが圧倒的におおかった。管理人の大家がもらう管理費はケースバイケースだが、通常は1割で生活も大変だが、とんでもない副収入があった・・・・・
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>江戸言葉 月ごよみ
〇「大家と言えば親も同然」
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大根は、どんな食べ方をしても食い合わせが悪いということがなく、食中毒にもならないことから「当たらない」食材だといわれた。
そのことから、どんな役柄を演じても「当たらない」俳優を「大根役者」というようになったとの語源説がある。
また、大根は色が白いことから「シロウト」に通じ、演技が下手な素人役者のことを「大根役者」と呼ぶようになったともいわれる。
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>江戸言葉 月ごよみ
・『大根3題―「千六本」「大根役者」「練馬大根」』
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画像をみる>江戸野菜の振り売り(棒手振り)の絵。
*「振り売り」 :江戸時代の振り売り(棒手振り)は天秤棒の両端に商品を吊り下げて街中を歩き回りながら販売する行商人。特に野菜を売る振り売りは「青物売り」として知られ、江戸の庶民の生活に欠かせない存在。
(『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻 べルリン東洋美術館蔵)
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鎌倉街道は「・・・面影橋を渡り、 南蔵院境内を抜けて高田村宿坂の関所跡にかかるのである。さらに護國寺裏から西巣鴨の鎌倉橋に出で中仙道を横切り、谷村・瀧野川村を経て王子豊島村に出で、千住にぬけるのである。」との記述がある。
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>神田川界隈物語
・「謎多き鎌倉街道 豊島区のどこを通っていたか?」
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画像をみる>豊島区の鎌倉街道
「雑司が谷 いろはかるた」 (絵と文 矢島勝昭)より
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江戸時代の食事は日に二度というのが、1700年代も半ばすぎ頃までの商家などでは普通だったが、それ以降は三度の食事が定着してくる。
当時の江戸歌舞伎のスーパースター五代目団十郎 作
『楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲良く三度食う飯』
江戸庶民たちが日に三度食膳を囲み一家団欒(だんらん)を楽しんだことを、この狂歌は伝えている。
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・江戸ことば 月ごよみ 『三度の飯と団十郎』
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姫路藩主榊原政岑(さかきはら まさみね)にみそめられ、高尾太夫を1800両で落籍する。高尾大夫を秤に乗せてそれと同じ重さの小判を積み重ねたという話もある。
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・神田川界隈物語『榊原家の菩提寺「本立寺」に眠る 名妓·高尾大夫』
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【新着コラム】
お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も、休暇をとることになるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。と言っても、本物の閻魔様は、あの世の地獄にいて、六道(ろくどう)の辻から地獄へ行かないと逢えないわけだが。その閻魔様を祀(まつ)った閻魔堂は江戸のあちこちのお寺にあり、幕末成立の『東都歳事記(とうとさいじき)』によれば66箇所だったというから、閻魔堂を巡る閻魔様もなかなか忙しかったようである。
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・江戸言葉 月ごよみ『地獄とエンマ様』
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・ 『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵
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いま、江戸野菜に注目されている。
江戸時代の大根といえば「練馬大根」が有名であが、
雑司ヶ谷産の巨大根(長さ30センチあまり、胴回り45センチあま)が
珍重され大奥へ毎年冬の時期に届けられた。
雑司が谷 いろはかるた 絵と文: 矢島勝昭
(ね) 練馬(ねりま)をしのぐ巨大根献上(きょだいこんけんじょう)
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>神田川界隈物語
・『地域特産の「大だいこん」は冬期に大奥へ献上』
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*『熈代勝覧』絵巻
文化2年(1805年)頃、江戸最大の繁華街-日本橋通を今川橋から日本橋を描いた「熈代勝覧」(きだいしょうらん)照覧絵巻。(縦43.7cm、横1232.2cm/人物:1671名/犬:20匹/馬:13頭/牛:4頭/猿:1匹/鷹:2羽/店舗:89店描画 / べルリン東洋美術館蔵)
天明6年(1786)、江戸の町人だけで100万人を超えていたという。それから5年後の寛政3年(1791)の江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。現在の日本の人口より多いではないかと驚かれるだろうが、その心配は・・・
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>『熈代勝覧』絵巻_日本橋北詰絵
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>江戸ことば月ごよみ『百川と百万都市・江戸』
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>水都江戸・東京物語『江戸時代の歴史人口が語るもの』
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幕府は、性描写に関する出版物の製作刊行については、幕末まで大らかに黙認していたのである。出版取締令によって取り締まられた「好色本」とは、色街などを舞台に社会風俗を乱すような淫(みだ)らな小説の謂(いい)であった。
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・江戸言葉 月ごよみ 「春画と春本」
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日本人は舶来ものが大好きである。江戸時代には、ラクダ、ゾウ、ロバ、ヒョウなど、異国の動物が次々と日本にやってきている。そして珍獣の見世物として庶民に親しまれていた。
文政4年(1821)、長崎に雌雄一組の「らくだ」が輸入され、翌年から大坂・江戸で見世物として評判になった。
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・江戸言葉 月ごよみ「らくだの見世物と落語」
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