どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。
江戸では馬の数が圧倒的に多かった。いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。
コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ 『江戸の馬いろいろ』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=9
1783年(天明3) は、6月にアイスランドのラキ山が、8月に浅間山が噴火。
火山灰は、北半球を覆って太陽光を遮り、異常気象を引き起こします。
これが凶作を招きフランスでは6年後に革命が起こるのですが、
日本はどうだったのでしょうか?
関連コラムはこちら>
・武蔵の国 江戸物語 No45『浅間山噴火により、 関東郡代が潰れる』
>http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo45.pdf
画像はこちら>
・浅間山の天明大噴火を描いた「浅間山夜分大焼之図」
>http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=781&cid=50
川幅を3間切り広げて、両岸に築堤樹木が命じられる.
完成後は、町年寄が管理する。
関連情報はこちら>
水から読み解く江戸東京「玉川上水物語」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd10/index.php?id=5
水戸光圀が命名したと伝えられ、梅の名所として江戸市中に知られ、数々の浮世絵、書物でも紹介されています。
『本所亀戸天満宮より三丁ほど東方にある、清香庵(せいきょうあん)喜右衛門の庭中に、臥龍梅と唱える名木がある。実に龍が横たわっている如くした形で、枝は垂れて地中に入ってまた地を離れ、いずれを幹とも枝とも定めがたいものである。匂いは蘭麝(らんじゃ)に負けずと張り合うほどで、花は薄紅色である。園中には梅の木が多いと言えども、この臥竜梅は殊に勝れた樹木である。四月の頃に至れば、実梅(みうめ)と号(な)づけて、人々はその詠めながめを楽しむ。』
「江戸名所花暦」(訳文は棚橋正博著 江戸の道楽から引用)
関連コラムはこちら>
・江戸ことば月ごよみ二月 「初卯と梅見」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
>歌川広重画 「名所江戸百景 梅屋敷」 (国立国会図書館所蔵)
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=761&cid=50
江戸時代最初の打ちこわし。米不足と米価高騰が原因で庶民による米商人(高間伝兵衛)の家屋や米俵を破壊する暴動
関連コラムはこちら> コラム 江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/
お正月を迎えるとすがすがしい気持ちになるのは江戸の昔も今も変わりません。しかし、比べてみると変わったことも多いようです。江戸時代には現代のような曜日や休日感覚はなく、正月と盆に加え五節句や寺社の縁日を中心に、仕事を休んでいただけです。また正月2日は、新年の顔合わせ的な要素も強く、仕事は午前で 終え、午後からは祝い膳を囲むことが多かったようです。 改めて江戸の正月風景を見てみましょう-----
詳細はこちら>
江戸から今に伝わる伝統芸能「江戸の正月風景」
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
江戸時代には、餅を搗く「賃餅屋(ちんもちや)」という商売があった。お客さんの自宅を回って搗く形もあったし、搗いた餅を届ける店もあった。そして、餅の値段は目方(重さ)によって付けられていた。図版は、賃餅屋の店の様子。左では、蒸籠(せいろ)で米を蒸しており、店先にはいろいろな形の餅が並べられている----
井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊。巻2ノ1)には、この賃餅にまつわる吝嗇(りんしょく)な男の話が書かれている。
詳細はこちら>
江戸ことば月ごよみ1月 正月の餅 「賃餅屋(ちんもちや)」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
江戸の流行語大賞といえば、さしずめ「日本(ニッポン)だ」だろう。これは、安永・天明頃(1772〜89)に流行(はや)った言葉である。田沼意次(たぬまおきつぐ)が推進した殖産政策によって、世は挙げて消費文化に明け暮れるようになっていく頃である。現代で言えば、「日本だ」は「ステキだ」とか「素晴らしい」といった意味で、通人(つうじん)たちが流行(はや)らせ、江戸中に広がった-----
詳細はこちら>
江戸ことば月ごよみ一月 「江戸の流行語大賞」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/
明治35年(1902)にドイツ語教師として日本の近代化に寄与すべく来日したリヒャルト・ハイゼは、現在の一橋大学や学習院で20数年教鞭をとる中で、皇族をはじめ明治の元勲や知識人たちとも親交をもった。
その中でも世界初の破傷風菌の純粋培養に成功し、ペスト菌を発見し「細菌学の父」とよばれた北里柴三郎とは深い親交があったと思われる。第一次世界大戦後にハイゼは財産を没収され窮地に陥るが、それを救ってくれたのが北里柴三郎である-----
詳細はこちら>
神田川界隈物語 1月号「日本の精神文化に心酔した リヒャルト・ハイゼ」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/
日本もいよいよ高齢化社会を迎え、年配の人たちは時折、「俺も焼きがまわった」というような言い方をする。若い人には馴染(なじ)みの薄い言葉かも知れない。頭の働きや腕前などが往時の鋭さがなく衰えたことを形容する語である。「焼きが戻る」も同義だとするが、こちらはあまり一般的に使われずに廃(すた)ってしまったようである。
もともとは「焼きが○○○のところへまわる」という言い方であったもので、たとえば「焼きが足へまわる」といった具合に、とんでもないところの足が鍛えられて、肝心なところの腕が鍛えられずにおろそかになるという言い方だったのが、省略されて「焼きがまわる」という言い方になり、それが本来の力が発揮されない意味の否定的なニュアンスとなったものと考えられる。
「焼き」を使った似たような言葉で「焼きを入れる」(鍛えなおす)というのがある。 『日葡(にっぽ)辞書』を見ると、「焼き上げる」というのは、刀がよく切れるようにすることの意味としている。・・・
詳細はこちら>
江戸言葉月ごよみ 12月号 「焼きがまわる」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/