江戸時代の食事は日に二度というのが、1700年代も半ばすぎ頃までの商家などでは普通だったが、それ以降は三度の食事が定着してくる。
当時の江戸歌舞伎のスーパースター五代目団十郎 作
『楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲良く三度食う飯』
江戸庶民たちが日に三度食膳を囲み一家団欒(だんらん)を楽しんだことを、この狂歌は伝えている。
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・江戸ことば 月ごよみ 『三度の飯と団十郎』
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2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。
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台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
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富士講(ふじこう)は、江戸時代に広まった富士山信仰の一形態で、特に関東地方で盛んに行われた。
富士講の信者たちは、富士山を神聖な山として崇拝し、登山を通じて精神的な浄化や祈願を行なった。
富士山に登ることが難しい人々のために、各地に富士塚と呼ばれる人工の山が築かれ、 地元でも富士山信仰を実践できるようになった。
【江戸七富士】
品川富士(品川神社境内)
千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
下谷坂本富士(小野照崎神社境内)
江古田富士(茅原浅間神社境内)
十条富士(十条冨士神社境内)
音羽富士(護国寺境内)
高松富士(富士浅間神社境内)
これらの富士塚は、現在でも多くの人々に親しまれ、富士山信仰の文化が受け継がれている。
*富士講が江戸幕府からしばしば禁じられた理由として、檀家制度を乱す可能性の懸念や一揆や打ち壊し運動の温床になる危惧などあげられる。
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・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜山開き
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「朱引図」(しゅびきず)は、江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
朱引の範囲は、江戸城を中心に北は荒川、東は中川、西は神田上水、南は目黒川まで広がっていた。この範囲は「御府内」とも呼ばれ、この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれ、江戸の公式な市域として認識された。「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
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江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
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どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。
江戸では馬の数が圧倒的に多かった。いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。
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・江戸ことば 月ごよみ 『江戸の馬いろいろ』
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姫路藩主榊原政岑(さかきはら まさみね)にみそめられ、高尾太夫を1800両で落籍する。高尾大夫を秤に乗せてそれと同じ重さの小判を積み重ねたという話もある。
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・神田川界隈物語『榊原家の菩提寺「本立寺」に眠る 名妓·高尾大夫』
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関東に入府した家康は、江戸を拠点とすることとし、 江戸城を築きながら、
戦いに備えたインフラを築造します・・・・・
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・武蔵國・江戸物語 〜 No30 戦いに備えた江戸の最初のインフラ
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf
江戸時代の橋梁は、 木製で老朽化が激しく (耐用年数、 約20年)、 さらに水害による流失があって、維持管理するのが大変でした。
両国橋は、架け替えの度に道幅を狭くしてコスト縮減され、また幕府が維持管理しない橋梁は、地元 (町方)に委譲されていきました。
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・武蔵國・江戸物語 〜 『永代橋にみる民間活力導入の惨劇』
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江戸は火事の多い都市だった。三度の大火以外にも、毎年のように火事に見舞われ、
長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた・・・・・
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・江戸十万日 月日の鼠 『江戸=東京の下町から生きられた記憶への旅』
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【新着コラム】
お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も、休暇をとることになるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。と言っても、本物の閻魔様は、あの世の地獄にいて、六道(ろくどう)の辻から地獄へ行かないと逢えないわけだが。その閻魔様を祀(まつ)った閻魔堂は江戸のあちこちのお寺にあり、幕末成立の『東都歳事記(とうとさいじき)』によれば66箇所だったというから、閻魔堂を巡る閻魔様もなかなか忙しかったようである。
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・江戸言葉 月ごよみ『地獄とエンマ様』
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・ 『地獄極楽図』河鍋暁斎画 東京国立博物館蔵
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