大正12(1923)年9月1日正午2分前に発生した関東大地震。
この地震から今年はちょうど100年目にあたるが、東洋乾板も致命的大打撃を受けた。
令和5年2月4日遺跡の見学会が実施。
東洋乾板の遺構を目の当たりにした時の感動と興奮は・・・・・
詳細情報>神田川界隈物語 「大正時代の遺構発見!」その三
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催事>梅若忌
日時>2023年4月15日
場所>梅柳山 木母寺(もくぼじ) 東京都墨田区堤通2-16-1
主催>梅柳山 木母寺
連絡先>03-3612-5880
概要>梅若忌の命日である4月15日に梅若丸大念仏法要・芸能奉納「隅田川」・梅若忌芸能成満大護摩供を執行を執行
詳細>https://www.mokuboji.org/年間行事/
「江戸っ子」という言葉が発生したのは、宝暦年間(1751〜64)か、それより前の享保年間(1716〜36)頃のことらしい。川柳(せんりゅう)に「江戸っ子」が出てくるのは、そのすぐあとの明和・安永年間(1764〜81)のこと・・・・・
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新着情報>・江戸ことば月ごよみ『江戸っ子と小判』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=16
元禄8年(1695)8月に元禄の貨幣改鋳が行われ、翌々年の元禄10年、亀戸村の検地と同時に1万5000坪余の土地に銭を鋳造する銭座がこの地に造られた。
(寛永通宝は、裏面に波形が刻まれているものが4文、刻まれていないものが1文)
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当月情報>・江戸ことば月ごよみ『江戸っ子と小判』
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1867年(慶応) 11月9日、大政奉還。
江戸城総攻撃が3月15日と決まり、事態は緊迫。その前日に、江戸の薩摩藩邸において、幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談が行われ、 交渉は無事成立。
1868年4月11日、江戸城無血開城が実現。
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当月情報>・水都江戸・東京物語り 第一部「武蔵國・江戸物語」≪東京への改称≫
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo53.pdf
大正12(1923)年9月1日正午2分前に発生した関東大地震。
この地震から今年はちょうど100年目にあたるが、東洋乾板も致命的大打撃を受けた。
遺構から乾板や実験道具がまとめて捨てられているようであり・・・・・
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新着情報>
・神田川界隈物語 「大正時代の遺構発見!」その二
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灌仏会は花御堂の真ん中へ誕生仏を置き、甘茶を注ぐ風習は今も変わりません。しかし春の4月は時に肌寒く、害虫も潜んだままです。だから誕生仏へ注いだ甘茶で墨を摺り、「千早振る卯月八日は吉日よ神さけ虫を成敗ぞする」と書 いて柱に貼った、毒虫退散の風習は絶えてしまいました 。
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新着情報>・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」
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例年、春分の日あたりが大潮(おおしお)となり、干満の差が一番大きくなる。今年の春分の日は3月21日、それから4月にかけての干潮時が、潮干狩(しおひが)りに絶好のシーズンとなる。
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・江戸ことば月ごよみ三月 「江戸の花見」
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芭蕉が眺めた桜は、ソメイヨシノではなく山桜の一種だった。ソメイヨシノは明治になってから新種の桜で花が咲いてから葉がつくが、山桜などは花と葉が同時にでてくる。私たちがイメージするこんにち花見の桜の風景とはだいぶ異った趣であった・・・・・
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・江戸ことば月ごよみ三月 「江戸の花見」
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関東に入府した家康は、 江戸を拠点とすることとし、江戸城を築きながら、
戦 いに備えたインフラを築造します。 水と米と塩です。
家康は、江戸を人流物流の中心にするため、 日本橋を築造して五街道の起点
とするとともに、 江戸湊を造成し・・・・・
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・「武蔵國・江戸物語」戦いに備えた江戸の最初のインフラ
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