投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-7-3 16:24:31 (365 ヒット)

「つんつるてん」と「テンツルテン」
衣服の丈が短くて、手足や膝〈ひざ〉が現れていることを「つんつるてん」という。
「つんつるてん」と似たような語感の「テンツルテン」という言葉が「近世語」(江戸時代語)にあり、「三味線の音を表す語」だとしている。
江戸時代には、この「テンツルテン」という言葉がよく使われていた。

詳細はこちら>
江戸言葉月ごよみ 七月
「つんつるてん」と「テンツルテン」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=7


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-6-4 3:53:46 (383 ヒット)

元禄8年(1695)10月、江戸町奉行は「歩きタバコ」を禁止した。キセルでの喫煙「キセルタバコ」で往来を歩くと捕まったのである。この年の2月に江戸大火、それによって定火消(じょうびけし。今の消防隊。5割増しに増設)を整備し、9月に放火犯罪が増えたことなど、火災をおそれての禁止だった。宝暦13年(1763)の町触れでは、くわえギセルで往来を喫煙するのは、もってのほかのことだと触れているので、江戸の街中での歩きタバコ厳禁は、江戸っ子のあいだではマナーになっていたのかも知れない

詳細はこちら>
江戸言葉月ごよみ
「歩きタバコ」の禁止
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=7


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2022-6-4 3:51:02 (343 ヒット)

文士たちは雑司が谷に行けば誰かに会えると雑司ヶ谷めぐりが始まった。「雑司ヶ谷の梟」のあだ名で呼ばれた雨雀は寂しがり屋で人好き。仲間たちを呼び、鬼子母神境内の茶屋に文人や画家たちが参集する。

詳細はこちら>
神田川界隈物語
「こよなく雑司が谷を愛した 秋田雨雀」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-12-8 20:45:04 (453 ヒット)

ドイツの医師クルムスの解剖書「AnatomischeTabel-in」のオランダ語訳を日本語訳した、日本最初の西洋解剖学の本格的な翻訳書。安永3年(1774)発行。
翻訳作業は困難を極め、完成までに約4年の歳月を要した。
翻訳の中心になったのは小浜藩医杉田玄白、中津藩医前野良沢で、原書にある精緻な銅版解剖図は、秋田藩士の小田野直武が木版画に直した。
本書はこれまで漢方医学で知られていなかった膵臓、リンパ管を指摘するなど大きな成果を生み出した。杉田玄白は晩年に、『解体新書』翻訳のときの様子を『蘭学事始』に記している。翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」などの語が作られ、それは今日でも使われている。

関連コラム
▶江戸十万日「月日の鼠」>. 
「原理を学び習得してから、治療の方法を理解する」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-12-5 23:25:36 (383 ヒット)

「とどのつまり」とは、「行き着く先、結局」という意味。
その由来を紹介すると-----------
・「とど」は、出世魚の鯔(とど)のことで、イナ→ボラ→トドと変わり、
最後は「とど」となって成長が終わるところから、「終わる、詰まる」という説。
・「とどのつまり」の「とど」は魚ではなく、歌舞伎用語「演技の終り、終了」から借用した説。

関連コラム
とどのつまり
江戸言葉 月ごよみ>十二月 「とどのつまり」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-12-5 23:21:20 (360 ヒット)

それは寄席で見られる曲芸ではないだろうか。
単に技術を修得すればよいというわけではなく、お金を払って見に来てくれるお客様に、満足して帰ってもらえる芸を修得することが、修行の目指すところである。
AIが越えなければならないハードルはかなり高いように思える。

関連コラム
神田川界隈物語>ボンボンブラザーズ VS AI(人工知能)
「寄席à la carte(アラカルト)」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-8-29 12:55:39 (458 ヒット)

旧暦では7月、8月、9月が秋の季節ということで、真ん中の8月の月であることから仲秋(中秋)の名月と呼びならわした。
旧暦の9月13夜の月も名月と呼ぶ。これは別名「栗名月」。とれた栗を月に供える風習が江戸時代からあり、それに対して仲秋の名月は別名「芋(いも)名月」

*詳細>コラム 江戸言葉 月ごよみ 「名月」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=10


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-8-29 12:53:57 (426 ヒット)

高田1丁目の坂(日無坂)の途中西側あたりで、明治6年、ここに含翠園を再興した隼太は西欧の技術を積極的に導入する。
辰砂(赤色) や蕎麦釉など釉薬の開発にも力を注ぐ。その後国内外の博覧会で高い評価をえる。

*詳細>神田川界隈物語 雑司ヶ谷物語〜「豊島の土」を美術品として海外へ送り出した竹本隼太
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-8-1 17:16:45 (553 ヒット)

江戸時代、米の価格が高騰(こうとう) するなどの原因で生活が困窮、 町人が大商人や米屋などを襲う 「打ちこわし」が発生。
打ちこわしの直接の目的は米の強奪でなく, 買い占め米を商売で使用不可能にし、買い占めをおこなった店に対して制裁を加えることにあった。
天明2年の大飢饉、天明3年の浅間山大噴火、天明6年の関東地方大雨大洪水などで米価が高騰、天明7年5月20日に起きた打毀は、全国的に広がった。

*詳細>「江戸十万日 月日の鼠」 第十六回 「支配層の心は、神や宗教から離れ、現世にのみ向かった」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2021-8-1 17:14:25 (468 ヒット)

竹本焼は、明治初年から大正期にかけ旧旗本の竹本家3代(要斎・隼太・皐一)にわたって作った陶磁器です。窯と工場は神田川に近い竹本家の屋敷「含翠園」にありました。やきものに必要な水は敷地から湧き出る豊富な清水を利用し、土は瀬戸などから取り寄せたほか、地元雑司が谷や落合の粘土も使用していました。竹本焼はまさしく豊島区の水と土から生まれたやきものです。

*詳細>神田川界隈物語 雑司ヶ谷物語〜豊島区の「水」と「土」から生まれた竹本焼
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd6/


« 1 (2) 3 »