弦巻川両岸の田畑は耕地整理が行われ、大正末から昭和初期にかけ周辺に住む子どもたちにとっての遊び場は「ハイゼの原」と呼ばれこの原っぱだった。正月に凧揚げ、 またスキーもできた。時に、時代劇の映画ロケが行われたりサーカスの小屋掛けもあったという。
また、鬼子母神近くに住んでいた 秋田雨雀もこの原っぱによく来ていたようである。
「私がはじめて秋田雨雀さんに会ったのもこのハイゼの原であっ た。・・・私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神様を眺めていた。するといつの間にか私の直ぐ左横に一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いていたその人を見た時、私は最初異人さんではないかと思った程だった。色の白い童顔、茶色のコール天のズボンをはいて、今ではルバシカと分かるが黒色のだぶだぶの上衣に腰の辺りを紐でしばった面白い風貌の雨雀は、夕焼けがきれいだねとぽつりと言った」と『雑司ヶ谷界隈』(中村省三) には当時の雨雀の容貌が細かく描かれている。
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神田川界隈物語 12月号 子どもたちの恰好の遊び場 雨雀も訪れた「ハイゼの原」
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「猫ばば」といえば、悪いことをしても素知らぬ顔をすることを言い、
たとえば拾い物をしても、それを返したり届け出たりせず、
コッソリ自分の物にすることなどをいう・・・・・
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江戸言葉月ごよみ 11月号 「猫ばば」
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リヒャルト・ハイゼ(1869〜1940)明治期にお雇やとい外国人として、日本にやってきた親日家のドイツ人。ドイツ語教師として、東京高等商業学校(いまの一橋大学)や学習院で教えた。
学習院では、昭和天皇にドイツ語をハイゼは教えた。雑司ヶ谷で暮らし、その建物は「雑司ヶ谷異人館」と呼ばれていた。1940年北京で亡くなったが、遺言により遺骨は福島県会津若松市の飯盛山に埋葬された。
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神田川界隈物語 11月号『 「異人館」として名物だった リヒャルト・ハイゼの住む家』
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年の瀬の風物詩として今も行われている酉(とり)の市(いち)。
酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになり、年末の商家では酉の市で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃えた。
「三の酉」を江戸の大火、振袖火事(明暦3年〈1657〉1月18日)・目黒行人坂火事(明和9年〈1772〉2月29日)・丙寅火事(文化3年〈1806〉3月4日)からみてみると・・・・・
*詳細は>コラム 江戸言葉 月ごよみ 「酉の市と大火 」
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・「七ツ屋」は「ななつや」といい「質屋」さん
・「十三屋」は「じゅうさんや」といい「櫛屋(くしや)」さん
・「十七屋」は「じゅうしちや」といい」「飛脚屋(郵便屋)」さん
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江戸言葉月ごよみ
『七ツ屋、十三屋、十七屋』
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昔し、源義家がこの川の辺り(池袋〜雑司ヶ谷〜江戸川橋)で戦って弓の弦を巻き返したというとこから弦巻川(つるまきがわ)とよばれるようになったと言われる。
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神田川界隈物語
『起伏にとんだ土地に 水を湛えて流れた弦巻川』
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五代将軍・綱吉は、生類保護の政策を打ち出してからは殺生を伴う鷹狩 を一度も実施しなかった。いったん廃止された放鷹制度は、八代将軍・吉宗によって復活する。
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神田川界隈物語
吉宗による将軍権威の強化 鷹場維持の為の「御犬部屋」
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手鎖は、江戸時代の刑罰。 前に組んだ両手に瓢箪型の鉄製手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる。 主に牢に収容する程ではない軽微な犯罪や未決囚に対して行われた。 戯作者の山東京伝が1791年に五十日手鎖の刑を受けたことで有名
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江戸言葉月ごよみ
手鎖は「てじょう」と読む!
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江戸の風景は、物売りに明け、また物売りに暮れた。
江戸時代にはコンビニエンスストアや自動販売機などなく、生活日常品やサービスはさまざまな荷物を担いで商品を売り歩く物売りがやってきた。
*棒手振(ぼてふり)、振売(ふりうり)ともいう。
物売りは、それぞれ何を売りに来たのかすぐに分かるような異装や売り声を聞かせ、声や装束を工夫し、より目立つかを競い合っていた。
全長6尺(約180セン チメートル)のハリボテの唐辛子を担いで、「とんとん唐辛子 ひりりと辛いが山椒の粉 すはすは辛いが胡椒の粉」と言いながら売り歩いた。
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「遅まき唐辛子」
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弦巻川(つるまきがわ)は池袋から雑司ヶ谷を経由して江戸川橋に至る神田川の支流で
東京都豊島区と文京区との間を流れていた河川。昭和7年(1932年)に当時の北豊島郡高田町により暗渠化工事が行われ、現在では川の流路はまったく残っていない。
池袋の地名の由来とされる丸池が存在したこを後世に残すため、水源の池である丸池(袋池とも呼ばれた)は豊島区立元池袋史跡として公園になっている。
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神田川界隈物語
「起伏にとんだ土地に水を湛えて流れた弦巻川」
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