投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:10:03 (46 ヒット)

大根は、どんな食べ方をしても食い合わせが悪いということがなく、食中毒にもならないことから「当たらない」食材だといわれた。
そのことから、どんな役柄を演じても「当たらない」俳優を「大根役者」というようになったとの語源説がある。
また、大根は色が白いことから「シロウト」に通じ、演技が下手な素人役者のことを「大根役者」と呼ぶようになったともいわれる。

新着コラムはこちら
>江戸言葉 月ごよみ
・『大根3題―「千六本」「大根役者」「練馬大根」』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/

画像をみる>江戸野菜の振り売り(棒手振り)の絵。
*「振り売り」 :江戸時代の振り売り(棒手振り)は天秤棒の両端に商品を吊り下げて街中を歩き回りながら販売する行商人。特に野菜を売る振り売りは「青物売り」として知られ、江戸の庶民の生活に欠かせない存在。
 (『熈代勝覧』(きだいしょうらん)絵巻 べルリン東洋美術館蔵)
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=792



投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:06:29 (52 ヒット)

鎌倉街道は「・・・面影橋を渡り、 南蔵院境内を抜けて高田村宿坂の関所跡にかかるのである。さらに護國寺裏から西巣鴨の鎌倉橋に出で中仙道を横切り、谷村・瀧野川村を経て王子豊島村に出で、千住にぬけるのである。」との記述がある。


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>神田川界隈物語
 ・「謎多き鎌倉街道 豊島区のどこを通っていたか?」
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画像をみる>豊島区の鎌倉街道
「雑司が谷 いろはかるた」 (絵と文 矢島勝昭)より
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=794


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:03:21 (45 ヒット)

安政江戸地震の後、江戸では多くのかわら版や浮世絵が発行さた。その中でも特に有名なのが「鯰絵(なまずえ)」。鯰絵は、地震を引き起こすと信じられていた鯰をテーマにした風刺画で、地震後の混乱や復興の様子を描いている。

*鯰絵
鯰絵は、地震を引き起こすとされた鯰を描いた浮世絵。地震後の混乱を風刺し、鯰が人々に懲らしめられる様子や、逆に鯰が復興の象徴として描かれることもありました。鯰絵は非常に人気があり、短期間で多くの種類が制作された。

関連情報はこちら
錦絵に見る安政大地震>消防防災博物館 
https://www.bousaihaku.com/fireillustration/3957/


画像をみる> 「大鯰江戸の賑わい」絵 (東京大学地震研究所蔵)
ここでは、鯰がクジラのようにお金を噴き上げ、人々が喜んでいます。このように、地震直後の混乱の過程を経て、復興景気がひろまってくると、鯰は災厄の象徴から福をもたらす世直しの象徴へとかわっていった、と読み解くことができます。
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=795


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:01:18 (51 ヒット)

天保通宝を金座所属の江戸浅草橋場町の銭座で鋳造、発行した。
これは小判を模した楕円形で、中央に正方形の穴が開いている銅貨、
量目は5.5匁(20.6g)であった。明治維新後も通用し,明治4年(1871)には1枚で8厘の通用となったが,明治24年(1891)12月末日をもって通用停止となった。


関連情報はこちら
「19世紀前半 文政・天保の改鋳」>貨幣博物館
 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern

画像をみる>「天保通宝」 重さは約20.6グラム、縦50mm、横30mm程度
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=793


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 2:27:11 (127 ヒット)

会場>台東一丁目区民館 多目的ホール
住所>台東区台東一丁目25番5号
問い合わせ>台東区 文化振興課 03-5246-1118

講師>小澤 弘
江戸東京博物館名誉研究員・淑徳大学人文学部客員教授

日時>
第1回 開催日時 10月19日(土)14時〜(90分)  
第2回10月26日(土)14時〜(90分)

観覧料> 無料

公式サイト >https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/events/00001c00000000000002000000541714

概要
>【第1回】浮世絵の成立から錦絵の誕生へ
「浮世絵」は、近世に江戸で興った新しい絵画様式です。その成立の背景には、近世初期風俗画がありました。
17世紀後半、菱川師宣が創始したという浮世絵は、新興都市江戸の歌舞伎と遊里吉原の当世風俗を画題とした作品で、当時「江戸絵」と呼ばれました。浮世絵は、肉筆画のみならず木版画による制作により、多くの人びとの目に触れる情報媒体となりました。また上方から芝居絵を画業とした鳥居派が江戸へ来たことによって、江戸の役者絵、芝居絵が作られるようになり、また版元兼絵師の奥村政信による画題の広がりや浮絵の工夫により、より多くのタイプの浮世絵が世の中に広まりました。

>【第2回】浮世絵の黄金期と版元・蔦屋重三郎
浮世絵は、18世紀中頃に大きな展開がありました。それが「吾妻錦絵」と呼ばれた多色摺り木版画の誕生です。その錦絵草創期に活躍したのが鈴木春信です。
その背景には、旗本大久保巨川や文人平賀源内などがおり、安永天明期の狂歌の流行と大小絵暦の交換会が拍車をかけました。その後、役者似顔絵の勝川春章などが出ましたが、とくに新興版元の蔦屋重三郎が喜多川歌麿を登用し、大首絵という新機軸をたてて浮世絵の黄金期を迎えました。

蔦屋重三郎は、遊里吉原の入口で細見売りの店から始め、通油町に耕書堂の店を構え、錦絵をはじめ多くの版本を出版しました。蔦屋重三郎は、寛政の出版取締令によって罰せられましたが、東洲斎写楽による雲母摺りの役者大首絵を手がけて再起を図りました。その後の浮世絵界は、歌川豊春、広重、豊国などの歌川派や「冨嶽三十六景」で有名な葛飾北斎などを輩出し、幕末明治維新期の赤絵、大正期の新版画へと受け継がれて現在に至ります。


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 1:26:28 (95 ヒット)

江戸時代の食事は日に二度というのが、1700年代も半ばすぎ頃までの商家などでは普通だったが、それ以降は三度の食事が定着してくる。

当時の江戸歌舞伎のスーパースター五代目団十郎 作 
『楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲良く三度食う飯』
江戸庶民たちが日に三度食膳を囲み一家団欒(だんらん)を楽しんだことを、この狂歌は伝えている。

コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ  『三度の飯と団十郎』
 http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 1:23:42 (93 ヒット)

2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。

関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
 https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 1:21:55 (87 ヒット)

富士講(ふじこう)は、江戸時代に広まった富士山信仰の一形態で、特に関東地方で盛んに行われた。
富士講の信者たちは、富士山を神聖な山として崇拝し、登山を通じて精神的な浄化や祈願を行なった。
富士山に登ることが難しい人々のために、各地に富士塚と呼ばれる人工の山が築かれ、 地元でも富士山信仰を実践できるようになった。

【江戸七富士】
品川富士(品川神社境内)
千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
下谷坂本富士(小野照崎神社境内)
江古田富士(茅原浅間神社境内)
十条富士(十条冨士神社境内)
音羽富士(護国寺境内)
高松富士(富士浅間神社境内)
これらの富士塚は、現在でも多くの人々に親しまれ、富士山信仰の文化が受け継がれている。

*富士講が江戸幕府からしばしば禁じられた理由として、檀家制度を乱す可能性の懸念や一揆や打ち壊し運動の温床になる危惧などあげられる。

関連コラムはこちら>
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 
 江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜山開き
 http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 0:58:42 (91 ヒット)

「朱引図」(しゅびきず)は、江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
朱引の範囲は、江戸城を中心に北は荒川、東は中川、西は神田上水、南は目黒川まで広がっていた。この範囲は「御府内」とも呼ばれ、この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれ、江戸の公式な市域として認識された。「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。

関連コラムはこちら>
江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-8-2 15:08:56 (179 ヒット)

どうして日本の東西で農耕馬と農耕牛と、飼う動物が異なっていたかというと、農地と気候の問題があったからである。
江戸では馬の数が圧倒的に多かった。いざ戦陣という場合に備え大名や旗本などは家格や石高(こくだか)に応じ、ある一定の数の馬を飼っておく必要があったから、武家屋敷の玄関の横には「馬の口」という厩舎があり、そこでは馬の嘶(いなな)きが聞こえていた。

コラム詳細はこちら>
・江戸ことば 月ごよみ 『江戸の馬いろいろ』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=9


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