幕命により、突然誕生した芝居町「猿若町」、
天保13年(1842年)〜昭和41年(1966年)の町名。
町名は江戸歌舞伎の創始者猿若(中村)勘三郎にちなむ。
老中水野越前守忠邦は天保改革の一環(風俗取締・著侈の禁止)として、
天保13年(1841年)10月7日、堺町と葺屋町の芝居小屋が焼けたのを機に、江戸の中心街から離れた当地に移転を命じた。
そして町を三分し、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座が小屋掛けして、芝居興行を始めた。(天保14年秋、浅草寺北方に芝居街が完成)
関連コラムはこちら>
>江戸東京下町地名めぐり「猿若町」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd1/
江戸時代、金銀の高額貨幣のほかに、銅や鉄でつくられた「銭(ぜに)」が少額貨幣として使われていた。まん中に穴があいている丸い銭は、紐(ひも)や緡(さし)で束ねられるようになっていた。銭形平次が投げたのもこれで、四文銭(しもんせん)である。
日本の中央政府が久々に銭を発行したのが寛永通宝であり、約660年ぶりのことであった。
その結果、寛永通宝が市場を席巻し、なんと戦後の昭和28年(1953)まで通用していたことは、年配の人なら記憶されているだろう・・・・・
関連コラムはこちら>
>江戸言葉 月ごよみ 生活とお金 『銭の話』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=16%20&file=edokotobaseikatsutookane
関連情報はこちら>
>貨幣博物館_日本貨幣史_17世紀金・銀・銅の貨幣の統一
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern
朝市は絵にあるように大勢の買い物客であふれかえっていた。
日本橋魚河岸の始まりは、江戸時代初期、徳川家は江戸城内の台所を賄うため大坂の佃村から漁師たちを呼び寄せ、 江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになった。これが魚河岸の始まりと言われている。
日本橋の魚河岸は関東大震災の被害によって築地に移転されるまで、 江戸および東京の台所として活況を呈していた。
絵>橋本貞秀画「大江戸年中行事之内 正月二日日本橋初売」東京都中央図書館蔵
関連コラムはこちら>「江戸の正月風景」
http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/
オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号。
「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
安政2年(1855)7月、オランダのキンデルダイクにて起工(620トン・100馬力)。明治4(1871)年9月21日、函館から小樽へ向かう途中泉沢沖で沈没。
勝海舟(1823〜1899)
勝麟太郎。本所にて生まれる、父は旗本小普請組 勝小吉。直心影流剣術免許皆伝。赤坂にて蘭学塾「氷解塾」を開く。長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸にて渡米。神戸海軍操練所を開設。江戸城無血開城を実現。明治維新政府の参議・海軍卿・伯爵。
関連コラムはこちら> 小説「江戸人紀」
第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=1
1657年に江戸の大半を焼いた大火災。13回の出火があり、3万から10万人の死者と江戸城の焼失などの被害があった。
大火後に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷や寺社が移転し、市区改正や架橋、防火線などの施策が実施された。
関連コラムはこちら> コラム 「江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2019/12/
江戸時代最初の打ちこわし。米不足と米価高騰が原因で庶民による米商人(高間伝兵衛)の家屋や米俵を破壊する暴動。
関連コラムはこちら> コラム 江戸十万日 月日の鼠」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/07/
歌川広重は、70歳近い1856年 (安政3) から、1858年(安 政5)にかけて、「名所江戸百景」を制作します。この百景の中に、ゴッホが模写した傑作の一枚があります。 それが、1857年 (安政4)に制作された 「大 はしあたけの夕立」です。 絵の設定が、なぜ夕方の雨なのかなぜ大はし(新大 橋)なのか、推論しましょう。
関連コラムはこちら> 「第一部 「武蔵國・江戸物語」」
No49 歌川広重「名所江戸百景」の新解釈
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo49.pdf
画像をみる>
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=803&cid=50
陰暦1702年12月14日(新暦 1703.1.30) ― 寅の上刻(15日の午前3時〜3時40分)。
有明の月が昨日からの積雪を皓々と照らし出し、界隈には月と雪以外なにものも見えなかった。
このときである。静寂の隙間から、いずれも鎖帷子を着用し、槍、刀などの武器を持った異様な男たちが降って湧いたようにして現われ、本所二ツ目の吉良邸へと向って行った。
関連コラムはこちら> 小説「江戸人紀」
『第四巻 元禄武士道』
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=22
画像をみる>
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=804&cid=50
勝海舟(1823〜1899)
勝麟太郎。本所にて生まれる、父は旗本小普請組 勝小吉。直心影流剣術免許皆伝。赤坂にて蘭学塾「氷解塾」を開く。長崎海軍伝習所に入所。咸臨丸にて渡米。神戸海軍操練所を開設。江戸城無血開城を実現。明治維新政府の参議・海軍卿・伯爵。
関連コラムはこちら> 小説「江戸人紀」
第一巻 勝海舟、サンフランシスコで月を詠む
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd7/index.php?id=1
関連情報はこちら>大田区立勝海舟記念館
https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/katsu_kinenkan/index.html
酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになった。
年末の商家では、酉(とり)の市(いち)で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃える。どちらも年の瀬の風物詩として今も行われている。
関連コラムはこちら >
〇コラム 年の瀬の風物詩「酉の市」と「熊手」
http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=12