投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:03:21 (27 ヒット)

安政江戸地震の後、江戸では多くのかわら版や浮世絵が発行さた。その中でも特に有名なのが「鯰絵(なまずえ)」。鯰絵は、地震を引き起こすと信じられていた鯰をテーマにした風刺画で、地震後の混乱や復興の様子を描いている。

*鯰絵
鯰絵は、地震を引き起こすとされた鯰を描いた浮世絵。地震後の混乱を風刺し、鯰が人々に懲らしめられる様子や、逆に鯰が復興の象徴として描かれることもありました。鯰絵は非常に人気があり、短期間で多くの種類が制作された。

関連情報はこちら
錦絵に見る安政大地震>消防防災博物館 
https://www.bousaihaku.com/fireillustration/3957/


画像をみる> 「大鯰江戸の賑わい」絵 (東京大学地震研究所蔵)
ここでは、鯰がクジラのようにお金を噴き上げ、人々が喜んでいます。このように、地震直後の混乱の過程を経て、復興景気がひろまってくると、鯰は災厄の象徴から福をもたらす世直しの象徴へとかわっていった、と読み解くことができます。
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=795


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-10-5 12:01:18 (24 ヒット)

天保通宝を金座所属の江戸浅草橋場町の銭座で鋳造、発行した。
これは小判を模した楕円形で、中央に正方形の穴が開いている銅貨、
量目は5.5匁(20.6g)であった。明治維新後も通用し,明治4年(1871)には1枚で8厘の通用となったが,明治24年(1891)12月末日をもって通用停止となった。


関連情報はこちら
「19世紀前半 文政・天保の改鋳」>貨幣博物館
 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/#HistoryEarlyModern

画像をみる>「天保通宝」 重さは約20.6グラム、縦50mm、横30mm程度
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=793


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 1:23:42 (75 ヒット)

2025年放送の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」。主人公の「蔦重」こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
蔦屋重三郎は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した著名な版元(出版人)で喜多川歌麿や東洲斎写楽などの作品を世に送り出し江戸の出版文化をリードした。

関連情報はこちら>
台東区文化芸術総合サイト
特設コンテンツ「2025年大河ドラマ主人公 蔦屋重三郎」ページ
 https://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/tsutaju


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 1:21:55 (72 ヒット)

富士講(ふじこう)は、江戸時代に広まった富士山信仰の一形態で、特に関東地方で盛んに行われた。
富士講の信者たちは、富士山を神聖な山として崇拝し、登山を通じて精神的な浄化や祈願を行なった。
富士山に登ることが難しい人々のために、各地に富士塚と呼ばれる人工の山が築かれ、 地元でも富士山信仰を実践できるようになった。

【江戸七富士】
品川富士(品川神社境内)
千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)
下谷坂本富士(小野照崎神社境内)
江古田富士(茅原浅間神社境内)
十条富士(十条冨士神社境内)
音羽富士(護国寺境内)
高松富士(富士浅間神社境内)
これらの富士塚は、現在でも多くの人々に親しまれ、富士山信仰の文化が受け継がれている。

*富士講が江戸幕府からしばしば禁じられた理由として、檀家制度を乱す可能性の懸念や一揆や打ち壊し運動の温床になる危惧などあげられる。

関連コラムはこちら>
・江戸から今に伝わる伝統芸能「大道芸」 
 江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜山開き
 http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-9-10 0:58:42 (70 ヒット)

「朱引図」(しゅびきず)は、江戸幕府が江戸の範囲を定めるために地図上に朱色の線を引いた。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
朱引の範囲は、江戸城を中心に北は荒川、東は中川、西は神田上水、南は目黒川まで広がっていた。この範囲は「御府内」とも呼ばれ、この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれ、江戸の公式な市域として認識された。「朱引」は1818年(文政元年)に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。

関連コラムはこちら>
江戸十万日 「江戸下町は文化創造センターだった」
http://www.edoshitamachi.com/web/fuyugaki/2021/04/


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-8-2 15:06:07 (117 ヒット)

関東に入府した家康は、江戸を拠点とすることとし、 江戸城を築きながら、
戦いに備えたインフラを築造します・・・・・

関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 No30 戦いに備えた江戸の最初のインフラ
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo30.pdf





投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-8-2 15:04:06 (116 ヒット)

江戸時代の橋梁は、 木製で老朽化が激しく (耐用年数、 約20年)、 さらに水害による流失があって、維持管理するのが大変でした。
両国橋は、架け替えの度に道幅を狭くしてコスト縮減され、また幕府が維持管理しない橋梁は、地元 (町方)に委譲されていきました。


関連コラムはこちら>
・武蔵國・江戸物語 〜 『永代橋にみる民間活力導入の惨劇』
http://www.edoshitamachi.com/web/suitoedo/PDFNo46.pdf





投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-8-2 15:01:30 (117 ヒット)

江戸は火事の多い都市だった。三度の大火以外にも、毎年のように火事に見舞われ、
長屋の密集した下町では、焼かれては建て直すことを数年ごとに繰り返していた・・・・・

関連コラムはこちら>
・江戸十万日 月日の鼠 『江戸=東京の下町から生きられた記憶への旅』

http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd8/index.php?id=13


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-7-2 15:53:23 (156 ヒット)

「きんぎょーや、きんぎょー」、江戸の街を金魚売りがゆく。
金魚は、元和6年(1620)に朝鮮半島から渡来したとされる(『武江年表』)。半世紀もすぎると、品種改良された金魚は初鰹(はつがつお)より高い5両以上の高値で売れ、ヒマな大名や金持たちは金魚の品種改良に血道を上げたという。

関連コラムはこちら>
・江戸言葉 月ごよみ『江戸の売り声』
 >http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=8
・江戸の夏行事〜今に継承されているものの由来〜
 >http://www.edoshitamachi.com/web/daidougei/

画像はこちら>
・ 『今様職人尽歌合』 金魚売より
 >http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=783&cid=50


投稿者: 江戸渋 投稿日時: 2024-7-2 15:49:28 (156 ヒット)

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた江戸は、大小数えきれぬ火事に見舞われた。
瓦屋根に蔵造りの店構へで防火対策を施した目抜き通りの商家も、所詮は木造建築だったため、飛び火すれば炎上は免れなかった。大店をはじめ資力のある者たちは、土蔵や穴蔵を設けて大事な品物を保管し、いざ火事となれば目塗りをして被害を避けた。
(*土蔵造り:壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋)

関連コラムはこちら>
・江戸一番の繁華街〜日本橋通りを江戸人と一緒に歩く!
 >http://www.edoshitamachi.com/web/e/

画像はこちら>
【土蔵造り】 壁を土で塗った土蔵のような造りの家屋
http://www.edoshitamachi.com/modules/myalbum/photo.php?lid=780&cid=50


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